喜界島でもゼロを達成できていないのに、事業はどんどんと進んで行く。行政機関のみが根絶事業を主導するとき、「なぜ減らないのか?」という問いが考えられることはなかった。

 なぜ奄美諸島のミカンコミバエは減らないのか?結局、この問題に取り組んだのは、伊藤と沖縄県農業試験場の研究陣だった。伊藤らは鹿児島県庁の職員の協力を得て、ミカンコミバエの誘引に関するデータを送ってもらった。解析したところ、沖縄本島からミカンコミバエが飛来しているのでは、という結論に達した。

 1977年に沖縄本島でミカンコミバエのオス除去法がスタートした。するとそれ以降、奄美諸島でミカンコミバエの姿を見ることはなくなった。直接の証拠は得られていないが、一連の事実は沖縄から奄美にミカンコミバエが飛来しているとする説が正しいと判断できるものだった。農林省は喜界島、奄美大島、徳之島でのミカンコミバエの根絶を1979年5月に確認したと発表、わが国ではじめてミカンコミバエ根絶が達成された画期的な瞬間だった。

 根絶作戦を、ただ闇雲に防除を進める事業として捉えると、問題が起こったときに解決ができない。なぜ根絶できないのか?についてデータを解析し、現場で起こっていることは何かを科学の目で問うてはじめて、問題解決への道は開けるのである。根絶のためには研究と行政が車の両輪のように、しっかりと連携しなくては事業が進まないという伊藤の主張は証明された。

日本に返還された
小笠原での根絶作戦

 次に根絶の戦場となったのは小笠原である。小笠原諸島は1968年6月26日にアメリカから日本に復帰した。そして東京都の管轄となったが、いくら小笠原でミカンなどの果物を栽培しても、東京都心の市場に持ち出せない。害虫の根絶が確認されていないからだ。

 ミカンコミバエが小笠原諸島に侵入したのは、1925年から26年にかけて、サイパンから父島へ寄生果実が持ち込まれたことによるとされる。小笠原にはミカンコミバエ以外の有害ミバエは侵入していなかった。アメリカも占領時代の1960年から62年まで、メチルオイゲノールを使って小笠原のミカンコミバエを根絶しようとしたが失敗している。

 小笠原が日本に返還されると、東京都は小笠原でのミカンコミバエの分布と基礎的な生態を調べはじめた。そして都は1975年に小笠原でミカンコミバエの根絶作戦に着手した。まず、同諸島全域を対象に、一斉に誘殺木綿ロープのヘリコプター散布と、テックス板の地上吊り下げによるオス除去が行われた。