こうして、野生虫の密度を低下させた後に、不妊オスを放して、根絶を図る方法を採用したのだ。なぜ都は、オス除去法による根絶をあきらめ、不妊化法に切り替えたのか。
実は当時、関係者を現代まで震撼させ続けることになる現象が生じていた。小笠原諸島に生息するミカンコミバエのなかに、メチルオイゲノールに反応しにくいハエの集団が見つかったのだ。なぜそのような集団が現れたのか原因は不明だが、2年間アメリカによるメチルオイゲノールの散布が続けられたことと関係があるかもしれない。
不妊化法の採用により
小笠原での根絶を達成
生物には個体変異がある。ミカンコミバエのなかにもメチルオイゲノールによく誘引される個体と、あまり誘引されない個体がいるだろう。もし長期的に誘引剤を使い続けると、この誘引剤に引き寄せられて死んでしまう個体は子どもを残せない。誘引されるという性質に遺伝性があるとしたら、誘引されにくいミカンコミバエがより子孫を残せて、集団中に広まっていくだろう。「抵抗性ミバエ」の出現だ。自然選択による進化の仕組みを考えれば、これは当たり前のことである。
この仕組みを理解していたのは、農林省の研究者で、当時すでに沖縄に赴任していた伊藤と、小笠原分室に採用されたミバエ専門家の岩橋統(1944~)だろう。
岩橋は小笠原を熱帯果樹や野菜の生産地にしようと考えた東京都が、東京都農業試験場の小笠原分室員として採用した、大学院を出たての若手研究者だった。後に僕はこの人に師事することになる。
宮竹貴久 著
伊藤と岩橋は、抵抗性ミバエの可能性について議論し、農薬に対する抵抗性を獲得した害虫と同じように、メチルオイゲノール抵抗性を獲得して進化したミカンコミバエの出現に危惧を抱いた。
メチルオイゲノール抵抗性のミカンコミバエ出現の危機に備えて、小笠原ではミカンコミバエの根絶の詰めとして、不妊化法を採用することになった。その結果1984年8月2日に、東京都知事から国にミカンコミバエの駆除確認調査の申請書が提出された。国による調査の結果、小笠原諸島に仕掛けた罠にミカンコミバエは誘引されず、ミカンコミバエが寄生する果実を13万2000個調べたが、寄生された果実は見つからなかった。根絶が達成されたのだ。
小笠原諸島全域がミカンコミバエの発生地域から除外されたのは、1985年2月15日だった。