入り口をくぐると、内部はとんでもない熱さだった。火山活動による地熱でサウナ状態だった。作業服は長袖長ズボン。スコップを持って入るだけで汗が噴き出た。中にいられるのは10分が限界だな、と思った。

 立ち上がれない高さでの作業。入り口が狭いため日光はほとんど入らない。だから目視確認できるのはヘッドライトで照らされた1~2メートルの範囲に限られた。

 七十数年前に構築された壕は長年、火山性地震の影響を受けているはずだ。崩落して生き埋めになる恐怖が頭をよぎる。戦闘中の兵士たちも同じだっただろう。いつ砲爆撃で生き埋めになるかという恐ろしさ。死に方はいろいろあるが、中でも「生き埋め」は苦しそうだ。僕は、実は閉所恐怖症の気がある。狭い機器に閉じ込める形で行われる健康診断の「MRI検査」が大の苦手だ。僕は10分もいられずに、壕を出た。その理由は熱さに耐えきれなかったこと以外にもあった。生き埋めになるかもしれない恐怖に負けたのだ。

遺骨捜索から戻った筆者は
異常な息切れとともに倒れた

 僕はサウナ好きだが、この時の汗のかき方は、過去に経験したことのないものだった。熱さによる汗と、スコップを振るう運動による汗、そして恐怖の冷や汗が混じっていた。戦時中の硫黄島の兵士たちは壕を掘るために連日連夜、この作業を続けていたのだ。

 硫黄島は今も当時も川のない渇水の島だ。生還者の大曲覚氏の証言が綴られた久山忍『英雄なき島』(光人社NF文庫)によると、兵士に支給された1日の飲料水は水筒1本だった。入っている水の量は500ミリリットルのペットボトルよりも少なかったという。

 地熱で満ちた壕の中で土を掘る作業は〈まぎれもなく生き地獄〉で〈苦しさのあまり発する兵たちのあえぎ声とうめき声で満ち〉ていた。〈こんな苦しい作業をするぐらいなら死んだほうが楽だ〉と音を上げる兵士もいた。〈硫黄島の兵隊は、陣地構築の段階で体力がどん底まで落ちた。(中略)米軍が上陸してきた時には戦う体力は残っていなかった〉。大曲氏はそんな証言を残していた。