夕食後の自由時間は、そのまま団員同士の交流の時間となった。あちこちの団員の部屋で酒盛りが始まった。鹿児島県から参加した桑原茂樹さん(75)は、僕にとって最も交流を深めた1人だった。たくさんの話を聞かせてくれた。

 桑原さんは父の出征時、母のおなかの中にいた。「まだか」と出産を待ち焦がれる思いなどをつづった硫黄島からの手紙13通を生涯大切にしている。遺骨収集の参加はこの時が8回目。「まるで今さっき兵隊さんが出ていったみたい」。そう錯覚するほど、軍服などがきれいに整理された壕に入ったこともある。亡くなった兵士に家族の元へ帰ってほしいと願い、遺骨が見つかるたびに心の中で「お家はどこですか」と語りかける。作業の休憩時間中は、よく海を見る。「島にいる間は父が隣にいるような気がするんです。父が見た海は、当時も今も変わらないでしょう」。切々とした口調で、そう語ってくれた。

 近年、国内外の遺骨収集に参加する遺族は、桑原さんのような遺児世代だ。「収集現場で遺骨を弔うとき、高齢の遺児が『おとーさーん!』と子供のように泣き声をあげることもあるのですよ」。硫黄島やロシアなどの遺骨収集に携わる遺骨収集推進協会の職員は、そう話した。「きっと父のいない家庭で生活に苦しみ、つらく寂しい少年時代だったのでしょうね」。

とんでもない熱さの地下壕で
生き埋めの恐怖に襲われる

 高齢者が大半を占める遺骨収集作業は安全なイメージが強かったが、実際は違った。

 現場活動初日。「235T-3」という壕を捜索していたときのことだ。

 壕内部の幅は1メートルで、高さは最も高いところでも1.6メートル。長さは10メートルほどだった。

 内部は長年の風雨の影響で土砂が積もっていた。積もった深さを調べるために2人がスコップを手に持って入ることになった。僕はそのうちの1人として内部に入りたいと志願した。硫黄島は日本側守備隊が総延長18キロもの地下壕を構築し、それを駆使して米軍に抗った特異な戦場だ。ついにその1つに入る時が来た、と僕の胸は高鳴った。