さまざまな科学者が意識研究に向かう背景

大岩:カンデルさんは著書で、この100年間で脳科学が解明したことは、それまでの人類の全歴史でわかっていたことよりも多い、この1世紀にそれだけ脳科学は進んだ、と書いているのですが、その中で、いまだに解決してないのが意識についてだという位置づけです。

 青野さんの著書でも紹介されている「グローバル・ネットワーク理論」など、意識についての最近の説や議論は紹介しているのですが、カンデルさんは、それらで本当に意識をすべて説明できるわけではない、とちょっと留保しています。

 その一方で、無意識については、過去1世紀でだいぶわかってきていて、特にフロイトが提唱した意識・無意識に関する分類や、それぞれの役割についての議論については、カンデルさんの著書の中で詳しく紹介されています。さまざまな精神活動において、無意識が非常に重要であることが科学的にわかってきたそうです。

青野:無意識はこの分野の重要なキーワードですよね。

大岩:精神活動というのは、喜びや不快感といった感情や意思決定、倫理的判断、などさまざまな精神的な活動のことです。それら全てにおいて、無意識の働きが重要だと立証されてきたとカンデルさんは説明しています。

 無意識と同時に意識があるわけですけども、意識についてはまだ、残された謎ですね。カンデルさんは著書でクリックさんが意識研究をしていることを紹介しているのですが、「現代におけるもっとも偉大な生物学者フランシス・クリックは……意識が生じる仕組みについて、あまり多くを解明することができなかった」という評価でした。

意識はどのように科学の研究対象になったか

青野:カンデルさんの指摘はわかります。でも、取材を始めた25年前、科学者が意識を研究テーマにするのはある種のタブーでした。何人かの人からそう聞いた覚えがあります。

 それが25年たって、今や意識は科学研究の対象になったといっていいと思います。そして、25年以上前に「意識は科学研究の対象になったんだ」と言い出したのがクリックさんでした。意識を科学で解こうと、その旗を振ったわけです。

 タブーであったものに対して、功成り名遂げて、押しも押されもしない人が、研究の旗を振ったんです。当時若手だったクリストフ・コッホさんと組んで、実際に実験的なことにも挑戦していったんです。

 たとえば、脳神経細胞のどこのどういう働きが意識を生み出しているかを追求する、そういうことをやってきたのです。それはそれでとても進んだんですよ。

 でも、それだけで意識が解明できるわけではなく、その点ではカンデルさんのおっしゃる通りでしょう。ただし、科学者が意識研究をすることはタブーでなくなった。その意味で、クリックさんの貢献は非常に大きかったと思います。

 また、意識にのぼらない無意識の重要性はクリックさんとコッホさんのチームも言ってきたことだと思います。そこにフロイトを持ってくるのか、何か別の言い方をするのかは違うと思いますが。

技術に支えられて新しい研究領域が生まれた

大岩:精神全般についても、似たような経緯があったと思います。カンデルさんの著書によると、19世紀には精神について研究することは科学者にとってタブーだったそうです。科学的な証明ができなかったからです。

 それもあって、精神医学はなかなか科学的に進まなかったと。ただし、20世紀に入り、さまざまな研究手法が開発され、精神について盛んに科学的に研究されるようになったそうです。

 近年、意識が盛んに研究されるようになってきた背景にも、研究手法の進展があるのではないでしょうか。

 分子生物学的な研究や、動物実験、そして脳のイメージング技術。特に脳のイメージングの進展は大きいと思います。脳内の働きを可視化できるようになったんですものね。

青野:そうですね。それはカンデルさんも、そしてダマシオさんも思っていることでしょう。意識研究は、こうした技術に支えられだんだん進歩してきたわけです。

 さきほど話に出た「グローバル・ワークスペース理論」(発展形はグローバル・ニューロナル・ワークスペース理論)も、ここへきて注目されています。これも理論を実験的に検証することができるようになって、注目度も上がってきたのだろうと思います。

汎心論的な理論も登場

青野:もう一つ、クリックさんとタッグを組んでいたコッホさんが最近傾倒しているのがIIT(integrated information theory)です。意識の統合情報理論。IITは、汎心論的な考え方、あまねくものに心があるという考え方ですが、そういう要素を含む理論なんですね。そこを批判されることがあって、ダマシオさんも批判的です。

 ただ、これも今この業界でとても注目の理論なんですよ。グローバル・ワークスペース理論と並んで対比されることが多いのですが、コッホさんはこの理論にとても可能性を見出しているのです。

 IITは、米国の免疫学者ジェラルド・エーデルマンさんの下で研究をしていたジュリオ・トノーニさんが提唱した理論です。エーデルマンさんは、免疫学でノーベル賞を受賞した後、意識研究に転向したんです。クリックさんと似ていますね。

 でも、IITも私にはむずかしくて……本書ではこの分野に詳しい日本人研究者に解説してもらいました。

 IITでは人間以外の動物にも意識があると考えるようです。IITの信奉者たるコッホさんはそう言っています。彼は愛犬家で、そんなことも影響しているのかもしれません。

 でも、汎心論だとモノにも意識があることになり、そういうところを批判されているのですが、別にそこまで言ってるわけじゃない。

大岩:ダマシオさんも、哺乳類や鳥類、社会的な生活を送る昆虫にも意識があるという考え方ですね。

青野:そうですね。「意識のメカニズムは、人間と人間以外で変わらないと信じている」ともおっしゃっています。汎心論に批判的なダマシオさんは、著書の中で「極論」と言っていますが、IITは汎心論そのものではないので、共通項はあるのかもしれません。

大岩:ダマシオさんが『教養としての「意識」』の中で、植物や細菌の大部分は麻酔に反応し、麻酔にかかった植物は休眠状態になる、という19世紀の生物学者の実験を紹介されていたのが興味深かったです。

 通常、麻酔のかかった状態は、意識のない状態だと考えられているのですが、ダマシオさんは、植物などの例を出して、外の世界を感知する機能と、心や意識は別で、麻酔が作用するのは、感知機能の方だけである、と説明しています。

科学は哲学にも近づき始めた

青野:心と意識の話になると、必ずサイエンスと哲学の境界領域に入ってきます。ダマシオさんだって哲学者的な要素があるでしょう。『教養としての意識』の著者紹介のところには、専門は神経科学・心理学・哲学って書いてありますから。

 私が著書で紹介した米国のデビッド・チャルマーズさんはこの業界では「意識のハードブロブラム」の提唱者として知られる哲学者ですし、『解明される意識』の著者で「コンピューターも意識を持つ」派のダニエル・デネットさんも哲学者です。

 デネットさんとチャルマーズさんは主張が違うのですが、この7月に東京で開かれた意識の国際学会(ASSC)にはチャルマーズさんもやってきて、4月に亡くなったデネットさんの追悼セッションで彼の功績をたたえていました。

大岩:意識も含めた心や精神は、むしろギリシャ時代から20世紀になるまでは、哲学者や文学者の考察対象だったのではないでしょうか。それが、20世紀には精神が科学者の研究対象になり、この四半世紀に意識もようやく研究対象になったという感じではないでしょうか。

青野:科学が哲学に参入してきたというのが正しいかも知れないですね。

後編に続く