科学記者としてノーベル賞科学者を取材して
青野:大岩さんはカンデルさんに会ったことがあるんでしたね。
大岩:『芸術・無意識・脳』をちょうど訳し終えたときに、たまたまカンデルさんの住んでいるニューヨークに旅行で行くことになっていたので、お会いしました。
青野:カンデルさんといえば、この分野では知らない人のいない権威ですが、どんなおじさんだったんですか?(笑)
大岩:ニューヨークのユダヤ人は、ユーモアのある人が大勢いて、ニューヨークでは、ユダヤ人のジョーク集が何冊も出版されています。カンデルさんはウィーン出身のユダヤ人なのですが、例にもれずすごくユーモラスな方で、常に私たちを笑わせてくれる、気さくな方でした。笑顔がとても魅力的で。
コロンビア大学の研究室で会ったのですが、研究室でも蝶ネクタイをしているのには驚きました。それまでに見た多くの写真でも蝶ネクタイをしていたので、蝶ネクタイがカンデル先生のトレードマークなんですね。
『芸術・無意識・脳』では、暗い部屋の中でも太陽光のもとでも、蝶ネクタイの色が同じに見えるのは脳の働きによる、と書いてあるのですが、なぜ、ネクタイではなく蝶ネクタイなのか、と不思議に思いながら訳したのですが、ご本人に会ってその理由がわかりました。
ノーベル賞取材の舞台裏
青野:私も本書にノーベル賞受賞者をたくさん登場させましたが、新聞社で科学記者をしていると、毎年ノーベル賞の季節には準備が大変ですよね。大岩さんと私は所属していた会社が違いますから、ライバル社でもあったわけですけれども、準備のし方は違うのかな。どうしてました? 日本人が受賞した場合に備えて、予定稿は作っていたでしょう?
大岩:はい、代々のノーベル賞担当者が作っていましたね。いろいろな研究者の方たちから意見を聞いた上で、でも最終的には自分たちで日本人研究者で受賞するとしたらこの方かな、みたいな感じで勝手に予想を立て、それに基づき、研究内容だけでなく、その人の人となりを紹介するような予定稿をたくさん、準備していました。
青野:ノーベル賞の場合、本当の候補者は事前に漏れてこないので、みんなそうやって山かけリストを自分たちで独自に作って、その日を待つわけですよね。
大岩:そうですね。この人は可能性が高い、と考える場合には、あらかじめその人がノーベル賞の発表当日どこにいるか、ご本人だけじゃなくて関係者の方たちがどこにいるのか、といったことも事前に確認しましたよね。マスコミ各社、だいたい同じような予想を立てているので、当日は、同じところに大勢の記者が集まって発表を待ちますよね。
青野:そうそう(笑)
Koichi Tanakaとは誰か?
大岩:一番驚いたノーベル賞受賞者は、化学賞を受賞した島津製作所(京都)の田中耕一さんですね。発表の日、私は科学医療部京都総局駐在記者として、京都にいたんです。
青野:うわあ、それは大変でしたね。
大岩:発表は英語で、Koichi Tanakaと出てきたのですが、当時、科学記者が知ってるKoichi Tanakaさんは、移植外科の田中紘一さんしかいなくて。それ以外のKoichi Tanakaさんは、誰も知らなかった。
青野:同じです。私は東京にいましたが、ちょうどその年にノーベル賞の準備をする担当だったんです。準備の責任者というか。だから予定稿は整理してあるし、どの記者をどの科学者のところに派遣しているかも把握しているし、そうやって発表を待つわけです。そして、ネットのライブ中継で発表があった瞬間、「えっ、この人誰?」って。
大岩:そうですよね。全く過去の業績もわからないし。
青野:血の気が引くとはこのことかと。ただし各社みんな同じ状況でしたからね。
大岩:私は発表当日、もちろんすぐに島津製作所に行ったんですが、ご本人が当初、社内のどこかに隠れちゃって、なかなか記者会見も始まらなかったんですよね(笑)
青野:でも、何とか原稿はできるんですよね。ノーベル賞の事務局が業績を発表するし、田中さんも少し時間たってから記者会見を開いてくれたし。それに、こういうときは片端から関係のありそうな研究者に電話するんですよ、この人って知ってますかとか、どういう業績なんですかとか。
そういえば、導電性ポリマーの発見で白川英樹さんが受賞した時も、私たちは準備が足りなかったかもしれません。たしか、白川さんは受賞が発表された夜、取材の電話がどんどんかかってきてうるさいので、電話のコードを抜いて寝てしまったっという逸話がありましたね(笑)。
大岩:そうです!! あの時も大変でしたね(笑)
ユニークさが際立つノーベル賞受賞者たち
青野:対面で取材したことはないんですが、遺伝子を増幅する「PCR」を開発したキャリー・マリスさんには変人ぶりを示すさまざまな逸話がありましたね。
最近ではmRNAワクチンのカタリン・カリコさんに受賞以前にメール取材したことがありますが、とてもきさくに答えてくれたのが印象的でした。
ネアンデルタール人が現代人の祖先と交配していたことを発見したスヴァンテ・ペーボさんにも受賞以前にインタビューしたことがありますが、とても穏やかで親切な人でした。
日本人では、「受賞はさしてうれしくない」と言った益川英敏さんはユニークでしたし、オワンクラゲの下村脩さんが「ノーベル賞受賞で自分のしたい研究ができなくなる」と本気で嘆いていたのが忘れられません。
大岩:青野さんの著書に登場するノーベル賞受賞者や科学者ってすごく多彩な人が多いですね。自分の専門領域だけじゃなくって。
カンデルさんもそうなんですよ。大学の学部生の時には、ハーバード大学で歴史学を専攻されたんです。
というのも、ウィーンにいた少年時代にナチスが台頭してきて、ナチスの侵攻があり、周りの人がみんなナチス派になり、ユダヤ人のカンデルさんの実家、おもちゃ屋さんも襲撃されたり、それまで仲良く遊んでた友だちがみんな一斉に口をきいてくれなくなったりして、アメリカに逃げてきたという経験があるんです。
なので、なぜヨーロッパの知識人がいきなり非道で野蛮な行為をとるようになったのか、それが知りたくて、大学では19世紀から20世紀にかけてのヨーロッパの歴史を学ばれたんですね。
しかしその後、学生時代につき合っていたガールフレンドの両親が、とても著名な精神分析医だった影響もあり、人の心を知るには精神分析の方がいいのではないかと考え直し、ニューヨーク大学の医学校に進学して医学の勉強をし、さらにはそこで基礎科学に出会って研究も始めました。
医学校を卒業した後しばらくは基礎科学研究と精神分析医としての臨床と、二足のわらじを履いていたものの、最終的には基礎科学を選び、ノーベル生理学医学賞を受賞する業績を挙げました。
今回の著書『脳科学で解く心の病』には、脳科学の基礎研究と、精神分析の臨床医としての経験の両方がいかされています。また、どの心の病についても、過去にはどのような疾患だと考えられていて、どのように治療されていたのかという歴史がしっかり書かれているのですが、それは歴史学を学んだことと関係あるのではないかと思っています。
それだけではなく、カンデルさんは少年時代から芸術にも強い関心を持っていて、30代のころから、20世紀末前後のウィーンの画家オスカー・ココシュカやエゴン・シーレなどの作品を買い求めていたんですね。その関心が色濃く反映しているのが前著です。非常に、多彩な方です。
なぜ、長生きでなければノーベル賞受賞者になれないか
青野:『脳を開けても心はなかった』に登場するノーベル賞科学者は、自分の分野はやり切って、そこから意識研究や心の研究に向かった人たちなので、そもそも一つのことでは飽き足りない人が多かったですね。逆に言えば非常に幅広い興味を持っている人が1つの分野を極めるとすごくいい仕事をするということなのかもしれませんが。
たとえば、複雑系にまい進したゲルマンさんは、学生の頃から1つのことだけをやるのはたまらない!と思っていたのだそうです。そのくせ素粒子理論では第一級の仕事をし、それだけでは満足できず、いろんなことに手を出さずにいられなかった。
シュレディンガーさんもさまざまな分野に興味があったそうです。また、若いころからの疑問を持ち続けて、一仕事した後に、そこに戻ったという人も複数いました。
大岩:ストックホルムに、ノーベル賞の授賞式や記念講演の取材に行ったことはありますか?
青野:残念ながらないんです。
大岩:私は田中耕一さんが受賞したときに行きました。
青野:どうでした?
大岩:その年は東京大学の小柴昌俊さんもノーベル物理学賞で受賞したW受賞でした。ストックホルムでは、物理学と化学の選考委員長にインタビューしたんですけど、受賞者を選ぶまでに大変、丁寧な調査して、時間をかけて選考している、ということがよくわかりました。
まず、世界中の何千人もの研究者に候補者を推薦してもらうアンケートを送り、挙がった候補者の中から業績を徹底的に調査するんですね。同じ領域の専門家の力を借りて。もちろん過去には、後の時代に疑問視されるような授賞もありましたけれど。
だから業績が出てから受賞までに結構、時間かかりますよね。そういう意味では新型コロナウイルスで実用化された、mRNAワクチンの開発に対しては、例外的に早く授賞されたなと思いました。
青野:例外的に早いものがいくつかありますよね。iPS細胞の山中伸弥さんも比較的早かったですよね。あとは、物理系だと新しい素粒子を検出し、その直後に受賞ということはありましたね。
ただ、多くの場合は業績の価値が確定するまでに時間がかかるので、ノーベル賞を取るための条件は「長生きすること」っていうのはあります。長生きしないと取れない。(笑)
意識に関心を深める新たなノーベル賞受賞者
青野:2020年に物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズさんは天才的な理論物理学者という誉れ高い人です。車椅子の物理学者、スティーブン・ホーキングさんともブラックホール理論で共同研究していました。
その人がある時、「人工知能も意識を持つ」という考えを批判して、「量子脳理論」を提唱し、この分野に議論を巻き起こしたのです。意識の謎を解くには量子力学が必要だと言い、しかも、単なる量子力学ではなく、もう一歩進んだ理論が必要だと主張して…。
といっても、もちろんペンローズさんの受賞理由はこの意識研究についてではありません。意識研究がノーベル賞を受賞することがあるとすれば、まだまだ先でしょう。ただ思い返すと、25年前にこの本の前身を書いたときにはペンローズさんはノーベル賞受賞者には入っていませんでした。
ここへきて「意識研究にハマるノーベル賞科学者」がまた一人増えたわけで、2020年にペンローズさんが受賞した時には、やった! と思いましたね。(笑)
ただ、ダマシオさんはペンローズさんたちの理論は「心が意識を生み出すプロセスを説明するのには不要」とばっさり切っています。