言語や創造性をはじめとして、意識は生物としての人間らしさの根源にあり、種としての成功に大きく貢献したと言われてきた。なぜ意識=人間の成功の鍵なのか、それはどのように成り立っているのか? これまで数十年にわたって、多くの哲学者や認知科学者は「人間の意識の問題は解決不可能」と結論を棚上げしてきた。その謎に、世界で最も論文を引用されている科学者の一人である南カリフォルニア大学教授のアントニオ・ダマシオが、あえて専門用語を抑えて明快な解説を試みたのが『ダマシオ教授の教養としての「意識」――機械が到達できない最後の人間性』(ダイヤモンド社刊)だ。ダマシオ教授は、神経科学、心理学、哲学、ロボット工学分野に影響力が強く、感情、意思決定および意識の理解について、重要な貢献をしてきた。さまざまな角度の最先端の洞察を通じて、いま「意識の秘密」が明かされる。あなたの感情、知性、心、認識、そして意識は、どのようにかかわりあっているのだろうか。(訳:千葉敏生)
意識は、研究者の間でも特別扱いされている
意識がまるで独立した問題のように論じられ、難解なだけでなく解決不能な独特の問題として特別視されているのを見ると、驚きを禁じ得ない。
なかには、「汎心論(はんしんろん)」なる極論を持ち出し、この袋小路から抜け出そうと試みる意識の研究者たちもいる。汎心論者たちは、まるで意識と心が同義語であるかのような話し方をするが、この見方にはかなり問題がある。
さらに問題なのは、彼らが心や意識を、すべての生物にあまねく存在する偏在的な現象だとか、生命の状態の根幹としてみなしていることだ。単細胞生物や植物もすべて、その意識の観点から考察できることになる。だとすれば、なぜ生物で立ち止まる必要があるだろう? 実際、一部の論者は、宇宙や、宇宙に存在するすべての石さえも、意識や心を持つとみなしている。
こうした理論が提唱された理由は、意識が置かれている不合理な状況とかかわりがある。つまり、心のほかの側面を理解するのに役立った考え方が、どういうわけか意識の問題を解決するのには通用しないというのだ。
本当に通用しないのかというと、私はその証拠はないと思う。一般生物学、神経生物学、心理学、心の哲学には、意識の問題を解決するばかりか、心の構造そのものという、いっそう奥深くて根本的な問題の解決に大きく近づくための道具がそろっている。それから、物理学も助けに加わることができるだろう。
意識の研究における大きな問題の一つは、現在一般に意識の「ハード・プロブレム(難問)」と呼ばれている命題とかかわっている。
この用語は、哲学者のデイヴィッド・チャーマーズが論文内で名付けたことで知られる。この問題の重要な側面の一つは、彼自身の言葉を借りれば、「なぜ、そしてどうやって、脳内の物理的なプロセスが意識体験を生み出せるのか?」というものだ。
簡単に言うと、意識のハード・プロブレムとは、「(数兆個の)シナプスによって相互接続された(数十億個の)ニューロンと呼ばれる物理的な物体で構成される、脳という名の物理化学的な装置が、心的状態、ましてや意識的な心的状態を生み出せるのはなぜなのか?」という、説明不能とも思える問題のことだ。
なぜ脳は、常に特定の個人と結び付いた心的状態を生み出せるのか? そして、そうした脳によって生み出された状態が、哲学者のトマス・ネーゲルが考えるように、何かに感じられるのはなぜなのか?
しかし、このハード・プロブレムの生物学的な定式化には、あやふやなところがある。なぜ「脳内」の物理的なプロセスが意識体験を生み出せるのか、と問うこと自体に誤りがあるのだ。
たしかに、脳は意識の生成において欠かせない一部だが、脳が単独で意識を生み出していることを示す根拠は何もない。逆に、生物の身体の非神経組織は意識的な瞬間の構築に大きく貢献しており、ハード・プロブレムの解決の一部を担っていることは間違いない。
意識的な瞬間の構築は、とりわけ感情のハイブリッドなプロセスを通じて起こるものであり、私たち研究者はこの感情のプロセスこそが、意識ある心の構築に大きく貢献していると見ている。