電車内のマナーは年々厳しくなる印象で、非常に気を使わざるをえない。マナーについては80年代から声を上げる人も多かったが、個人的な不快感とマナーをごっちゃにしているケースもあるという。電車のマナーにいちゃもんをつける人間の心理をある作家の作品から読み解く。本稿は、田中大介著『電車で怒られた! 「社会の縮図」としての鉄道マナー史』(光文社新書)を一部抜粋・編集したものです。
「昔はよかった」「若いやつは失礼」
規範の劣化言説はいつの時代も
かつての交通道徳には「礼・非礼」、「エチケット」には「美・醜」という基準が存在した。その一方、1980年代後半以降の鉄道の「マナー」に関する投稿には「快・不快」を基準にした論調が際立ってくる。たとえば『運転協会誌』という雑誌に1993年11月から1年間連載された「今日もまた電車の中で――マナーと世相を考える」という記事がある。その連載の第1回は以下のような論調である。
「電車は社会の縮図」であるという認識と、規範が衰退しているという「劣化言説」がきれいに反復されている。さらに連載を通して「昔は良かった」式の若者批判や女性差別のような言説も頻出する。こうした言説が戦中から存在し、規範の劣化が事実ではないことを指摘するのは簡単だろう。
また、いまからみると「若者バッシング」や「ミソジニー(女性嫌悪)」といえるような語りは、『若いやつは失礼』(小林道雄著、岩波ジュニア新書)のように、この時期にはそれほどめずらしいものではない。むしろこうした文体は、遠慮のないお節介なふるまいや口うるさいずけずけとしたものいいなど、それ自体が「積極的関与」の表現ともいえるコミュニケーション様式が、この時期の対面関係にまだ存在したことを示唆している。
また、この連載の特徴は、執筆者個人が感じる不愉快さや怒りが世相全体へと拡大されている点にある。たとえば、この論考では「交通道徳」や「エチケット」において参照されたナショナリズムやデモクラシーなどの理念・理想がゆらいでいる。