車内にタンやツバ、ポイ捨て…
昔の電車マナーが粗雑すぎる

 たとえば、かつての鉄道車内は、かなり粗雑で荒っぽかったという。20年、30年前には車内にタンやツバ、それにヘドを吐いたり、チリ紙などを足元に捨てたりしていた。さらにそれ以前ではタバコを吸ったり、靴磨き用にシート地を切り取ったり、からんだり暴力をふるったりといった光景もすくなくなく、行儀は悪かった。

 また、以前の通勤電車にはワキガ、ニンニク、タバコ、ポマードそれに洗髪不足による頭髪からの独特の臭いなどが充満しており、酔っ払いのヘドや屁の悪臭もすくなくなかった。口臭もひどかった。いわゆる人いきれとこれらの悪臭が入り混じっており、乗った瞬間、思わず足がすくんだものだった、とさえいう。

 しかし、「行儀は少々悪かったが、人間同士、特に弱い者に対しては温かい心を持っていたのが、近頃では行儀こそかなりよくなったものの、その代わり他人に対しては極めて冷たくなったように思えてならない」と主張する。

 カンボジアの列車は車両もサービスも劣悪で、ぎゅう詰めの客車は屋上にまで人が乗り、大量の荷物を運びこむような状況である。しかし、人びとの助け合いをみることができ、他人に対する思いやりと仲間意識が存在する、という。そして、マナーの問題は個人の「心の問題」であると結論付けられる。

 ただし、「今どきの人びと」を罵倒し、およそおおらかさとは程遠い筆致のこの論者が、過去の鉄道に耐えられるようには思えない。こうした矛盾には、マナーの高度化を促すフィードバックをみてとることができる。

 つまり、礼節重視の交通道徳や美学重視のエチケットを主張しつつも、感覚重視のマナーを捨てられるわけでもない。むしろ個人的な「快/不快」が独り歩きするほど、規範に対する期待水準がどんどん上がっている。こうして、ますます筆者は苛立っていく。

 マナーに対する意識が「快・不快」の感覚的レベルにまで徹底され、車内が清潔になり、人びとの行儀がよくなればなるほど、些細な不愉快さが許せなくなり、不機嫌さがどんどん増していく――そんな様子が、連載を通してみてとれる。

 たとえば、連載の終わりのほうになると、電車のなかで会話をしている女性の歯並びが悪く、ネズミかリスのようで不快である、なぜ矯正しないのか、とまでいう始末である。個人の「快・不快」をそのままマナーの問題として語ってしまっている。