「早く大人になりたい」は、子どもの歌の一大ジャンルだ。なのに、いざ大人になってみると、子どもの頃が恋しくて仕方なくなるのはなぜなのだろう。自身もこじらせ系で生きてきた精神分析医が、「大人とこども」論を語った。※本稿は、キム・ヘナム『「大人」を解放する30歳からの心理学』(CCCメディアハウス)の一部を抜粋・編集したものです。
鈍くなった感性のおもむくまま
のんびりと老いるのは悪くない
実を言うと、10代の頃の私は年を取るのがものすごく嫌だった。20歳になるなんて世も末で、考えただけでも鳥肌が立つほどだった。ところが、そんなにも20歳を恐れていた私は今、還暦さえとうに超えている。
若い頃は「老い=人生の墓場」のように感じられていたけれど、今はむしろ老いる感覚のほうが気楽で若い頃よりよっぽど楽しい。もう一度若い頃に戻れるとしても戻りたいとは思わない。針のように研ぎ澄まされた感性と、もんもんとした気持ちを抱えて、先が見えない日々を送るなんて二度と御免だからだ。
少しへたって鈍くなった感性で、のんびり構える余裕ができた今のほうが断然心地いい。だが、そうはいっても、時として「大人」という言葉に苦しめられる時はある。
息子が小学生の時のことだ。ある日、彼は私に駆け寄ってきて何やら質問をした。それに対し私が「どうだろう、お母さんもわからないな」と答えると、息子は「大人なのに、そんなこともわからないの?」と言って、ぷいっと背を向け行ってしまった。
「わからなくて何が悪いの?すべてを知るなんて無理に決まってるじゃない」。訳もなく腹を立てて声を上げたものの、一方では少し恥ずかしくなった。大人なら何でも知っているべきという考えが、私自身の中にもあったからだ。
そういえば、世間は多少なりとも年齢を重ねた人たちに「年甲斐」や「年相応」を強要する。兄弟げんかをすれば、上の子ばかりが「お兄ちゃんらしく/お姉ちゃんらしく」しろと責められるし、大人が子どもじみたいたずらをすれば「いい歳をして、みっともない」ととがめられる。
自ら進んで年を取ったわけでもなければ、「大人」にしてくれと頼んだ覚えもないのに、歳月は勝手に私たちを満たして、その対価を要求してくるのだ。
「大人になれよ」のプレッシャーに
押し潰されて戸惑うばかりの大人たち
それだけではない。これまで育ててくれた親でさえ、お前はもう十分大人だから、これからは年相応に自分で対処しろと突き放してくる。
ここでいう「年相応」とは、これくらいの年齢であれば、これくらいはできて当然という他者からの期待値だ。その期待値を軸に私たちは「年甲斐がある人」にもなれば、「年甲斐がない人」にもなる。つまり「年甲斐」は、その人に課せられた責任と義務の量に比例するのだ。