世間では一般的に「子どもは子どもらしく」、「大人は大人らしく」あるべきといわれている。この2つを分ける最大の基準は、行動様式が自己中心的か現実的かという点だ。いうなれば快楽原則に従って行動するのが子どもで、現実原則を踏まえて行動するのが大人なのである。

 だから、子どもなのにやりたいことを我慢して、状況を踏まえた行動をする子は「大人びている」と言われ、現実を無視して勝手気ままに行動する大人は「大人げない」と言われてしまう。

 子どもから見た大人は「俗物」だ。夢もロマンもなく、どこまでも現実にしか興味を示さない、つまらない人間である。一方で大人は、大人らしく背負わされた年甲斐に押しつぶされ戸惑っている。現実社会に順応しなければ「年甲斐がない」と責められて、現実に即して行動すれば「俗物」と揶揄される。このように大人に対する期待値は非常に高い。

「大人ならこうするべき」という前提は、大人になった瞬間から1つの荷物としてのしかかる。世間は大人に多くを期待する。大人はいい仕事に就いてお金を稼ぎ、家族の平穏を守らなくてはならない。ついでに、結婚もする必要がある。それでこそ「真の大人」だと。さらに、大人なら成功法も知っていて当然だ。大人なら、あらゆることを調整し、いっぱしの人生を歩む術を知らなければならない。

大人の不自由さに直面すると
自由な子どもの頃が恋しくなる

 しかも、大人は自分の言動に責任を取ることも求められる。場合によっては自分以外の人の言動についても、単に大人としてその場にいたという理由だけで責任を負うことになる。

 大人はむやみに動揺したり興奮したりすることも許されない。いつ何時も理性を保って合理的な判断を下さなければならない。子どもたちの過ちは寛容に許され、時にはかわいいとまで言われるのに、大人は大人になった瞬間から失敗が許されないのだ。おまけに、それで法的責任を追及されることさえある。

 感情に任せて判断を誤ることも、ささいなことでやたらに喜んだり怒ったりすることも厳禁だ。大人なら落ち着いていることが大前提。感情は抑えてしかるべきものであり、どんなに悲しくても泣き顔を見せることはできない。大人というのは何をしたってとがめられてしまうものなのだ。