「考え方が180度変わって、自然と起業していました」
渡邊勇輝くんは必死で受付の女性に向かってまくしたてた。4年前の話だ。
「編集の亀井さんを呼んでください。約束はしていません。でも会いたいんです」
なかなか引き下がらない男に困り果てた受付の女性は、渋々受話器を取った。
渡邊くんには目的があった。何としても森岡毅さんに弟子入りしたいのだ。鞄持ちでもいい。日々、森岡さんに接することができたら、自分はもっと成長できるはずだ。森岡さんはUSJを離れて、刀という会社を立ち上げたらしい。だが刀の連絡先は必死に調べてもわからない。ならばどうすればいいか。森岡さんの本を編集した人なら知っているはずだ。森岡さんの本に「亀井」という編集者が出てきた。この人を探そう。
そして辿り着いたのが、ダイヤモンド社の受付だった。
「森岡さんの本を初めて読んだのは、大学1年の時でした。マーケティング専攻でしたし、USJにも興味があったので『USJを劇的に変えた、たった1つの考え方』を読んでみたんです。とんでもない衝撃を受けました。考え方が180度変わるくらいの驚きだったんです。ある目的を達成するには、その背景にある要素を分解し、逆算して論理的に戦略を考えるべきだということを、人生で初めて学んだんです。因数分解の考え方は数学だけのものじゃないということに気づきました」
それまでは物事を深く考えたことはなかった。どこにでもいる平凡な学生だった。しかし、ある出来事の背景には何があるのか? ある結果を出すには、逆算してどんな道のりを歩めばいいのか? そういうことを深く洞察する習慣がついた。すると、いろんなことが劇的に変わっていった。
彼は陸上部に所属していた。それまでは、ただ与えられたメニューを何も考えずこなすだけだった。しかし、何と何と何があれば足は速くなるのか、ということを深く考えるようになった。速く走るためには物理の法則を知らないとダメだと考えるようになった。上に跳ねる力と前に進む力が合わされば、地上では速く走れるはずだ。
このトレーニングは何のためにやるのか? 今自分に必要なのはどんなトレーニングか? 自分なりに効果的なトレーニングを考案し、練習を重ねるようになった。すると自己ベストをどんどん更新できるようになった。「これは面白い」と、部の仲間にもそのメソッドを勧めた。するとチームの全員が自己ベストを出せるようになり、部全体が強くなった。
森岡メソッドを実践することで、生き方そのものがガラリと変わった。物事に対する考え方が変わった。考えることの楽しさに気づいた。
「この考え方、やばいな。マーケティングって楽しすぎる」。
普通なら漠然と考えて行動してしまうような領域を、順序立てて考えるだけで結果は全然違ってくる。身の回りの物事の見え方が変わってくる。世界が違って見える。
就活も怖いものなしだった。インターンの段階でいくつもの企業から内定をもらえた。
しかし卒業を前にして思った。「森岡さんの下で働かせてもらえれば、もっとものすごいものを得られるのではないか」と。元々それほど本を読む人間ではなかった。マーケティングという学問にそこまで強い思いがあったわけでもない。しかし森岡さんの本を読んだことで、部活でも学業でも大きな成果を出すことができたのだ。
亀井さんは、森岡さんにつないであげるから手紙を書いてみなさいと言った。だから必死で思いを綴った。文系だから数学マーケティングはわからない。今の自分の武器は熱量しかない。熱い思いだけでも届けよう。
しばらくして、残念ながら刀はまだ発足したばかりで新人を採用する余裕がないという連絡を受けた。渡邊くんの願いは届かなかったが、「君の行動力はすごい」と間接的に森岡さんにほめられた。
その後、内定をもらっていた企業には就職しなかった。学生時代に思いついたビジネスを回すうちに、あるベンチャー企業の役員から声がかかり、いきなり経営企画として引き抜かれたからだ。その役員と2人で、2年の間に新しい事業を3つスタートさせた。
『苦しかったときの話をしようか』には、「君の強みは必ず好きなことの中にある」と書かれていた。得意なことの掛け算をしていけば、「相乗効果によって初めて見えるようになる景色もある」とも書いてあった。
自分の強みは、マーケティングがわかっていることと、コンピュータに詳しいことだ。プログラミングもできるし、コードも書ける。それを活かして、デジタルマーケティングのコンサルティングやエンジニアリングのようなことを始めると、口コミでどんどん仕事が入るようになった。
個人的に受ける案件が増えすぎて、新たにやりたい事業もどんどん生まれてきて、会社は2年で辞めることになった。いずれ独立したいとは思っていたが、わずか2年で実現するとは思わなかった。全ては森岡メソッドに沿って、自分の得意分野に特化してきたからだ。
今、渡邊くんは新たな事業に取り組んでいる。得意なマーケティングとITに、さらにもう一つの得意分野「ランニング」を掛け合わせた事業だ。
走りを科学的に伸ばす陸上教室「SmartDashスクール」を発足させた。学生時代に手に入れた速く走るメソッドを、さらに科学的に進化させ、会員になった人に定期的に指導する取り組みだ。ランナーだけでなく、サッカーや野球やラグビーなど、走ることに大きな意味があるスポーツにも展開していきたい。ライザップのランニング版みたいなもの、と言ったらわかりやすいだろうか。一般的にはお金にならないと言われるランニングを、立派な事業として成立させたい。
もう一つの事業は、シューズの特性をテストして数値化し、インターネット上に発表すること。ランニングシューズには様々な特性があるが、その情報を知らないで自分に合っていないシューズを買ってしまう人が多い。
「Picker」という陸上選手のためのスパイク比較サイトを試験的にオープンした。これを見れば、ランナーは自分の走りに合ったシューズを選ぶことができる。いわばスポーツ用品とユーザーのマッチングサイトだ。これをシューズだけでなく、スポーツ用品全般に広げていくつもりだ。ありそうで意外となかったアイデアだ。
マーケティングの知見とコンピューターの知見とアスリートの知見。これらを兼ね備えた集団はおそらく日本に僕らしかいない。その優位性は絶対にあるはずだ。
得意なことの掛け算で、渡邊くんは早くも日本で唯一の人材になりつつある。
1冊の本を読んで、人生が大きく変わることがある。それは紛れもない真実だ。ここで紹介した3人以外にも、「『苦しかったときの話をしようか』を読んで人生が変わった」という読者ハガキはたくさんいただいた。
しかし、ただ本を読めば人生が変わるのか、といえばそうではない。読んで学んだことを実践してみたとき、初めて何かが変わっていくのだ。変わることは誰だって不安だ。そして成長する限り、不安はずっとなくならない。でも、それでいいのだ。
「不安なのは君が挑戦していることの証拠だ」(森岡毅)