OGP撮影:疋田千里

テクノロジーが急速に進化し続ける中、既存の職種は消滅し、新しい職種が生まれていく。「人生100年」とうたわれ、20代で身につけたスキルの価値はあっという間に変わり、それらに磨きをかけるだけではキャリアの継続が困難な時代に入った。キャリア観のアップデートが求められる中、企業や組織任せにするのではなく、個人が自身のキャリアについて向き合い、主体的にキャリアを開発していく「キャリア自律」に注目が集まっている。今回、宇宙飛行士の山崎直子氏と、慶應義塾大学大学院教授の神武直彦氏が対談。JAXA時代の同僚でもある2人が、複数のキャリアを経て再会し「キャリア自律」について語り合った。(文/奥田由意、編集/ダイヤモンド社 編集委員 長谷川幸光、撮影/疋田千里)

※本記事は2024年3月14日に開催された、ダイヤモンド・オンライン「経営・戦略デザインラボ」のイベント「進化する組織2024 ―Go 4 Growth―」における講演をもとに記事化したものです

2人がキャリアの舞台に
「宇宙」を選んだきっかけ

神武直彦氏(以下、神武) 山崎さんと私はJAXAの同僚で、私は2年後輩になります。JAXA入社までの来歴をあらためてお聞かせいただけますか。

山崎直子氏(以下、山崎) 中学生の時に、スペースシャトル「チャレンジャー号」の事故をテレビで見て、衝撃を受けました。

山崎さん山崎直子
やまざき・なおこ/1999年、宇宙飛行士候補者に選抜され、2001年、宇宙飛行士として認定。2010年、スペースシャトル「ディスカバリー号」による、国際宇宙ステーション(ISS)組立補給ミッション「STS-131」のMS(ミッションスペシャリスト)として参加。物資移送作業全体の取りまとめや、ISSのロボットアームの操作などを担当。野口聡一宇宙飛行士とともに、日本人宇宙飛行士が初めて軌道上に2人同時滞在し、さまざまな共同作業を実施。2011年に宇宙航空研究開発機構(JAXA)退職後、内閣府宇宙政策委員会委員、Space Port Japan代表理事、日本宇宙少年団(YAC)理事長、環境問題解決のための「アースショット賞」評議員などを歴任。

 それまではSFアニメの世界だと思っていた宇宙という空間で、現実に、事故と隣り合わせの状況の中で必死に頑張っている人たちがいる――。

 その時から、「宇宙開発に携わりたい、できれば宇宙飛行士になりたい」と思うようになりました。

 大学の工学部航空学科を卒業後、大学院では航空宇宙工学を専攻。宇宙空間に燃料補給所を設置し、補給しながらより効率よく遠くへ行くためのシステム設計を手がけ、のちにロボットも研究しました。

 大学院修了後は、JAXA(当時は宇宙開発事業団「NASDA」)の筑波宇宙センターに勤務。そこで宇宙飛行士に募集して合格し、宇宙飛行士になりました。

 神武先生はどのような経緯でJAXAに入社したのですか。

神武 私は、祖父が航空会社でヘリコプターを造っていて、叔父が南極観測隊員で、犬のタロとジロで有名な『南極物語』で描かれた現場にいたんです。

 祖父が空で、叔父が南極なら、自分はもっと遠いところ、宇宙で仕事をしてみたいと、漠然と考えていました。そのようなことを考えていた中学生の時、父がNASDAの入社案内のパンフレットを私に持って帰ってきてくれたんです。それで、「NASDAに入れば宇宙に行けるぞ」と考えました。それ以降、頭の中が宇宙開発、そしてNASDAのことでいっぱいでしたね(笑)。

 大学には航空宇宙学科がありませんでしたが、コンピュータやマシンを扱う能力は絶対必要になると思い、理工学部へと進みました。その進学先のラグビー部で出会うことになった先輩、星出彰彦さんがNASDAに就職されていたので、彼を追いかける形で入社しました。その時には、星出さんがのちに宇宙飛行士になられるとは想像していませんでした。

山崎 入社後、最初は何をされていましたか。

神武先生神武直彦
こうたけ・なおひこ/慶應義塾大学大学院理工学研究科修了後、宇宙開発事業団入社。H-IIAロケットの研究開発と打ち上げに従事。欧州宇宙機関(ESA)研究員を経て、宇宙航空研究開発機構(JAXA)主任開発員。宇宙機ソフトウェアの独立検証・有効性確認の統括、および、アメリカ航空宇宙局、欧州宇宙機関との国際連携に従事。2009年より慶應義塾大学へ。日本スポーツ振興センターハイパフォーマンス戦略部アドバイザー、慶應義塾横浜初等部長(校長)などを歴任。名古屋大学客員教授。共著書に『いちばんやさしい衛星データビジネスの教本』(インプレス社、2022年)など。博士(政策・メディア)。

神武 ロケットか国際宇宙ステーションの開発に関わりたいと思っていて、入社前の人事部門の方との面談でお話ししたのですが、ちょうど当時、NASDAが力を入れていた新型ロケットH-IIAの開発部門に配属となりました。

 H-IIロケットの打ち上げとH-IIAロケットの開発に携わり、入社後数年で、H-IIロケット8号機が日本の大型ロケットとしては初めて失敗し、とてもショックを受けました。当時のどん底から再び立ち上がる経験は、いまでも活きています。

山崎 どん底から立ち直る――。容易ではありませんが、それは本当に大切な経験ですよね。

神武 山崎さんは入社後、国際宇宙ステーションの開発に従事されていらっしゃいましたよね。

山崎 はい。入社後すぐに、国際宇宙ステーションの開発部門、その中でもシステムインテグレーション部門に所属しました。学生時代の専攻とも近く、さまざまなものづくりのメーカーの方々と一緒に仕事をさせていただくことができて、本当にいろいろなことを学ばせてもらいました。

 入社前の1996年に、宇宙飛行士の選抜試験に応募したのですが、書類審査で不合格となりました。JAXAに入社してからも、再応募したいと思っていたものの、募集がいつあるかはわかりませんし、仕事が忙しいこともあり、しばらくは目の前の仕事をこなすのに精いっぱいでした。入社して3年後、再び募集があり、そこで選んでいただくことができました。

神武 諦めずにチャレンジしたわけですね。選抜試験に向けてどのような準備をされましたか。