織田信長の「過激すぎるエピソード」
――次に、織田信長についてもお話を聞かせてください。信長は、信玄とはどんな関係だったのでしょうか?
本郷 信玄がとにかく戦に強かったので、尾張の国(現在の愛知県西部)を治めていた信長は、信玄と戦わずに済むように、ある時期までは同盟関係を構築していました。
しかし、お互いの領地が拡大して接するようになってくると、どうしても戦わざるを得ません。最終的には、「これ以上は仲良くできない」ということで戦争をするようになってしまいました。
ただ、お互いに「あいつはすごい武将だ」ということを認め合っていたのは間違いないと思います。
――そんな信長も、若いときはものすごい不良だったんですよね。
本郷 そうですね。名門・織田家の長男として生まれたにもかかわらず、信長は悪い仲間たちとばかりつるんでいて、「うつけ(=バカ)」と呼ばれていました。
『東大教授がおしえる やばい日本史』でも紹介していますが、彼は自分の父親のお葬式で位牌にお香を投げつけて、それを見て責任を感じた世話係の平手政秀が切腹した、という衝撃のエピソードが残っています。
信長があまりにも周囲の言うことを聞かないので、「私が死んでお諫めしますから言うことを聞いてください」という意思表示ですね。
ちなみに、彼が切腹したのには、違う理由があったのではないかと主張している人もいます。
――信長は、その世話係の一件で改心したんでしょうか?
本郷 いや、残念ながらしませんでした(笑)。
――やはり、なかなかの「うつけもの」ですね(笑)。ちなみに、若い頃はファッションも奇抜だったそうですが、どんな格好をしていたんでしょうか?
本郷 信長は、カラフルな格好を好んだみたいです。男性用より女性用の服の方がカラフルなものが多いというのは今も昔も同じだったようで、信長は女装もしていたそうです。
当然、周りからは「その格好はやめてほしい」というような声もあったはずですが、信長は意に介さず「俺はこの服装がいいと思うから黙ってろ」という感じだったんでしょうね。
信長は、実は裏切られてばかりだった
――そういう性格の信長も、のちに優れた武将になります。これは、家臣をまとめ上げる「カリスマ性」があったということでしょうか?
本郷 そういうイメージも流布していますが、信長という人物は、実は裏切られてばっかりだったんです。
――あれ、そうなんですね。
本郷 なぜなら信長は、どんなに家柄が立派な人物でも、優秀でなければ家臣として重用しなかったからです。
どういうことかというと、同時代の他の戦国大名は、政治においては「調和」を重視していました。たとえば、その地域で名門出の武士であれば、能力とは関係なく総じて高い地位につけました。
これは、いわゆる「世襲」という仕組みで、お父さんが偉かったら息子も偉い、その息子の子どもも偉いというわけです。家臣に「裏切られるリスク」を減らすために、そうした人事をしていたんですね。
ところが、信長は、家柄的には高い地位に登れるはずの人物でも、能力が足りなければ容赦なく降格させました。逆に、頭がよかったり、武芸の才能があったりすれば、家柄にこだわらずにどんどん出世させたんです。
ある意味でフェアな人事ではありますが、こういう政治をしていると、やはり裏切られてしまうものです。
皆さんご存じのように、信長は本能寺の変で明智光秀に裏切られて自害しています。本当に壮絶な人生だったといえますね。
つづく
(本稿は、ダイヤモンド社「The Salon」主催『東大教授がおしえる やばい日本史』特別イベントのダイジェスト記事です)
東京大学史料編纂所教授。東京都出身。東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ。大河ドラマ『平清盛』など、ドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わっている。おもな著書に『新・中世王権論』『日本史のツボ』(ともに文藝春秋)、『戦いの日本史』(KADOKAWA)、『戦国武将の明暗』(新潮社)など。監修を務めた『東大教授がおしえる やばい日本史』はシリーズ78万部。最新刊『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』も発売中。