下品(げぼん)そのものの生き方

 私たちの使う「効率」とは、「自分の(不完全な)頭の中での最適なもの」に過ぎず、それはある種のエゴだといえます。そのエゴを優先していると、周囲との信頼関係を軽視するようになり、関係性を維持することが困難になるのです。

 そうなると仲間が少なくなってきて、自分自身の人生が貧しいものになりかねません。もちろん、仲間なんていらないという人も当然いらっしゃるでしょう。しかし、自身にとって都合の良い効率ばかりを追い求める姿勢は、すばらしい人や機会との出会いのチャンスを自らで阻んでいるかもしれないのです。

『観無量寿経』では、浄土に往生する人間の生き方に応じて、人間を「上品(じょうぼん)」「中品(ちゅうぼん)」「下品(げぼん)」とランク分けしています。品のない振る舞いを「下品(げひん)」な振る舞いと呼んだりしますが、もともとはこの「下品(げぼん)」という言葉がルーツになっているようです。

「下品」な人間とは、さまざまな悪事を行うも、それに対する自覚がなく、恥じ入る様子がない人間のこと。大谷大学学長の一楽真先生が、これに関して以下のようにおっしゃっていました。

現代は経済効率を優先し、環境破壊を繰り返し、命までもが利用価値で計られるようになっている。仏の教えからは、全くもって遠いと言うほかはない。上品どころではない。お互いに傷つけあう生き方は、まさに下品そのものである。

 確かに、人間の立場からの経済効率を追い求めた結果、地球環境は非常にひどい状況に陥っています。そして、それに対して罪を感じるどころか、「経済効率を優先することが当然である」と思っている人が多いのもまた事実です。そう考えると、効率という病に取り付かれている私たち現代人はある種「下品な人間」だといえます。

「自分にとって意味のあるもの(効率や利益)だけを追求する」ことを当たり前とするのではなく、そのような姿勢の問題点を一度じっくり見つめ直すことが大切なのではないでしょうか。