自らの指導力のなさが
体罰に結びついていた

 リーダーシップには、コミュニケーション能力や行動力、判断力、創造力などさまざまな要素があるが、そのベースになるものは、自ら考えて判断し行動できる力なのだ。そのベースを築くためには、選手と指導者とのあいだに、フラットで対等にモノがいえる関係がなければならない。

 逆に、お互いにフラットな関係のなかで、選手が意見をいったときに、指導者がどれだけの度量をもって対応できるかが問われているともいえる。

 今思えば、以前の私は、度量がなかったから「つべこべいわず、とにかくやれ」といって、強制的にやらせていたのだろう。

 まさに、私の指導力のなさが体罰に結びついていた。

 今振り返ればそういえるのだが、当時は「これが最善だ」と思ってやっていた。悪いという自覚がないどころか、それが愛だとさえ思っていたのだ。

「指導とはそういうものだ」という信念があったから、ときには威圧や強制とも取れるような言動を、私はむしろ意図的に行っていた。

 指導者は、ときには役者としてふるまうことがある。その時々の状況に応じて、優しい雰囲気を出したり、厳しい雰囲気を出したりしながら、ある意味パフォーマンスをするわけだ。