これもまた、とても詩的で深みのある解釈ではないでしょうか。
現代を生きる私たちはつい「目に見える結果」「成果」「成功」といった「完成形」に右往左往しがちです。
しかし、本当に大切なものは「目に見える形」で完成したりはしない。
仏教の「悟りの境地」のようなもの。
そう表現するとイメージしやすいでしょうか。
たとえば、ネット上の事典として多くの人が使っている「ウィキペディア」も常に書き換えられ「永遠に完成しない」がもともとのコンセプトだと聞いたことがあります。だからこそ価値があり、価値が永続的になる。
私たちが暮らすこの地球も、もっと大きな宇宙というものも、決して完成することなく変化を続けています。そもそも私たち自身が「未完の地球」の一部なのです。
そう考えると「成し遂げた」「完成した」と思うこと自体、人間の勝手な思い込みでしかありません。宮沢賢治は『農民芸術概論綱要』という作品で「永久の未完成これ完成である」と語っています。
本当に偉大なものは完成しない。
ある意味、老子らしい厭世観が出ていると言えばその通りなのですが、私は個人的にこの解釈がとても気に入っています。
「本当に偉大なもの」は決して完成などしない。「あの人は何かを成し遂げた」なんて必ずしも言い切れるだろうか?
自分の無知と無教養が
ほとほといやになったとき
自分には知識がない。学がない。
IT(情報技術)のことも、経済のことも、社会のことも何もわからない。
そうしたことに引け目を感じている人も多いのではないでしょうか。
一流大学を出た、欧米の名門大学院でMBAを取得した、むずかしい資格を取った。
そんな人たちを見て「自分には何もない」と悩んでいる人もいるでしょう。
もちろん相応の努力をして幅広い知識を身につけたり、むずかしい試験をパスしたりした人は立派です。
でも、その人たちが素晴らしいからといって、「知識や学がない人」がダメな人間というわけではありません。
わかっていても、つい「学がない」「資格がない」と悩んでしまう。
そんなときは「0点」のことを考えてみてください。
「人に勝つため」に学ぶのなんて、かっこ悪い。
だから、僕は「知らない」ってはっきり言うよ。
学を絶てば、憂い無し。
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学ぶことをやめてしまえば、思い煩うことはなくなる。自分の価値を損なうような学びなんて、いっそやめてしまったほうが屈託なく生きていける。