改めて言うまでもなく、学ぶことは大切です。
老子だって「絶対学ぶな!」と言っているわけではありません。
しかし、どんな種類の学びにせよ「学んでいない人はダメ」「知識のない者は下級の人間」なんてつまらないヒエラルキー意識を植えつけられるくらいなら、そんな学問はさっさとやめてしまったほうがいい。
老子はそこを言っているのです。私もそう思います。
では、私たちはいったい何のために学ぶのでしょうか。
これまたむずかしいテーマですが、ひとつ言えることは「自分が豊かになるため」だと思います。人と比べてどうこうでなく、あなたがあなたらしく、自然のままに生きること。それこそが老子の教える「豊かさ」だと私は捉えています。
他人との間に優劣をつけ、結果自分が苦しむくらいなら「私は0点です」と笑いながら生きているほうがいい。そんな本質を老子は説いているのです。
学のある人と自分を比べて無知を嘆くくらいなら、「学ばない自分」「素直で、伸びやかな自分」をもっと謳歌してみてください。
それともうひとつ、老子のこの言葉には違った角度のメッセージも込められていると私は解釈しています。
有史以来、いろいろな学者や科学者がさまざまな研究を続け、文明を発達させてきました。その恩恵にあずかることで、私たちは便利で快適な生活を送っていますが、文明の発達が真の意味で、私たちを幸せに導いてくれているでしょうか。
そんな疑念も心のどこかにあるわけです。
武器や兵器の開発、原子力の活用リスクなど、文明によって生まれた「負の側面」も当然あります。昨今はAI(人工知能)が加速度的に進歩しています。その発達が本当に「正しい」と言えるのか。そんな議論もあります。
もしかしたら、老子が言うように「学ぶことなどやめてしまえば、私たちは(人類という大きな枠組みにおいても)楽になる」のかもしれません。
そんな壮大なテーマも考えさせられる言葉です。「学びの価値」とは、そう簡単に決められるものではないのです。
野村総一郎 著
ちょっと裏話を付け加えるなら、老子のこの言葉には「孔子への反発心がある」との説もあります。
老子の時代、「学び」と言えば「儒教」、すなわち「孔子の教え」を指していました。
老子の主張には「そんな堅苦しいものを学んだって仕方ない」との意味合いもあったようです。
儒教には「こうやって人生を送るのが正しい」といういわゆる「べき論」もたくさん出てきますが、それを老子は否定して「何が正しいかなんてわからないでしょ」と言いたかったのかもしれません。仮に孔子へのアンチテーゼで語られた言葉だとしても、それもまた「老子らしくて、悪くないなぁ」と私は好意的に受け止めています。
知識や学が、そのまま自分の価値につながるわけではない。だから、学がないことに引け目を感じる必要はない。