橋本は明仁皇太子には「旧華族の上流から妃を求めない」という信念があったとし、その理由は「彼らのあまりにひどい腐敗ぶりと、手前勝手な生活が、戦後史の初期に続発したからである」と書いた。その「醜態」を見た皇太子は、旧華族との訣別を誓い、華族制度に守られて育った女性との結婚を拒否したのだという。
橋本は皇太子夫妻の結婚が憲法の「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」するとの精神を具現した新時代にふさわしい人間的なものであったのに、義宮の結婚は旧時代に戻ったようであり、「本当に両性の合意があったかどうか、疑問が残る」とまで批判した。ミッション系の女性を避けるという義宮のお妃選考方針は「反美智子妃」的動きであり、このため兄弟の関係にひびが入ったとも指摘した。
![書影『比翼の象徴 明仁・美智子伝 中巻 大衆の天皇制』(岩波書店)](https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/8/0/200/img_800e32abc0dab216182635442e8d06c827755.jpg)
井上亮 著
これに対して「旧勢力」側から「女性自身」次号で反論が寄せられたため、橋本は同誌8月30日号(発売日は田島が「驚く」と日記に書いた同月24日)で「皇室への2つの意見に私から答える」と題した明仁皇太子のインタビューを掲載した。
皇太子は「欧米から帰って〔1953年の欧州訪問〕それは、非常に早い時期だったと思うが、私は上流旧華族の本家からは、妃をとらないということを小泉〔信三〕さんに話している」と橋本の記事を肯定。旧華族との訣別を誓ったわけではないが、「国民とともに考え、ともに生きる伴侶としての人を求めていた」のであり、それは旧華族には求められない姿だったと言う。そして「現在、美智子の、常に日本国民のことを考え、自分のつとめに忠実たらんとしている姿をみて、この自分の考えが間違っていなかったと感じている」と述べた。
週刊誌上の論争に皇太子が加わり“反論”するのは前代未聞である。田島が日記で「驚く」と書いたのはこの記事のことだった。この記事が事実だとしたら、軽々に週刊誌に登場したとの批判を受けても、義宮と華子の結婚で孤立感を深める美智子妃を何としても守り抜きたいという思いがあったのかもしれない。