中央線と山手線抜きでは
あり得なかった関東私鉄の発展

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 中央線は1919年に万世橋(1912年開業・1943年廃止)から東京へ延伸し、山手線と接続。中野から東京まで中央線、そこから山手線に入って新橋、渋谷、新宿、池袋を経由して上野まで直通する、いわゆる「の之字運転」を開始した。

 1919年頃の山手線は2両編成、定員は今の10分の1に過ぎないが、東京~上野間(外回り)の所要時間は約62分だった。現在は55分なので、ここでも遜色ないサービスである。運転間隔は定期列車が12分だったが、不定期列車を含めると平均8分だった。

 中央線は1918年に全列車が2両、1924年に3両、1924年に4両になった。車両も順次、大型化し、車両定員はそれ以上に増加した。山手線は1919年に全列車が2両、1922年に3両、1923年に4両編成、1926年に5両になった。このことからも大正末に鉄道利用者が激増したのが分かるだろう。

 山手線の環状運転が始まったのは99年前、1925年11月1日のことである。大正後期から昭和初期にかけて相次いで開業した私鉄は郊外化の受け皿となり、中央線と山手線は各路線からの乗り換え客を都心に輸送した。

 そして最後に1932年、総武線が隅田川を渡り御茶ノ水に乗り入れ、都心を縦横に結ぶ路線網が完成した。梅田や難波にターミナルを置いた関西私鉄とは異なり、独力で都心に乗り入れられなかった関東私鉄の発展は中央線・山手線抜きではあり得なかったのである。

 鉄道博物館には「デ963形」の他、大正初期に山手線を走った「ナデ6110形(ホデ6100形の改良型)」、昭和戦前期に中央線を走った「クモハ40形」、名古屋市のリニア・鉄道館には大正後期に京浜線で使われた「モハ1形」が展示されている。意識して行かないと素通りしてしまいがちだが、次に訪れることがあれば、身近な電車の先祖をぜひ見てほしい。