母親よりも、あなた自身がそれを言ったときから変ることができるはずです。そして、それは精神の離乳の契機になるにちがいない。どろどろした愛情の血の泥沼のなかで、とび立つべき自分のつばさをぬらしてしまっている一人息子になるよりは、「親不孝」をすすめたい……というのがわたしの考えです。

「おまえを育て、かわいがってきたのはこのわたしであっておまえの恋人ではない」という母親だったら、尚更捨てなくてはいけません。

 そして家庭的な人間から、一度は社会的な人間に変ってゆき、そのあとでまた、自分がどのような人間としてアンガジェすべきかを考えることです。

 さあ、あなたの家の中へ、こころの姥捨山をつくることを始めてください。

――『ぼくが狼だった頃』

故郷とは過ぎてきた
思い出にすぎない

 俺は東京で生まれて東京で育ったから「故郷がないんだ」と言う男がいる。だが、その男だって生まれた土地は持っているのである。

 ただ、故郷というものは「捨てる」ときにはじめて、意味を持ってくるという性質のものらしい。

 だから一生故郷を捨てないものには、「故郷」が存在としては感じがたいだけのことなのである。

 故郷というと田園を思いうかべる人がいるが、それは想像力の貧困というものである。故郷というのは、実は「捨てる」行為によってたしかめられる自分の生い立ちの思い出のようなものなのかも知れない。

 だからそれは、土地というよりは経験であるとも言える。

 ハイマートロージヒカイト(故郷喪失)という観念は、いわば自分自身の喪失にかかわることであって、土地遺棄のことではない。

 帰る故郷があるならよかろ

 俺にゃ子もない親もない

――『人生処方詩集』
 人生はそのまま大河演劇であり、私たち自身は台詞を言い、演技論(という名の幸福論)を身につけ、そのとめどない劇の流れの中で、じぶんの配役が何であるかを知るために、「自分はどこから来たのか?そしてどこへ行こうとしているのか?」と自問しつづけている。

――『地下想像力』