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※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

まるで現代のプレゼン術! 北条政子が武士を動かした「伝説の演説」Photo: Adobe Stock

北条政子の生涯と鎌倉幕府の確立

 北条政子(1157~1225年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物で、伊豆(静岡・伊豆地方)の豪族の娘として生まれる。当時は平家が繁栄している一方、源氏は没落していた。そんななか、その源氏の流人であった源頼朝(1147~1199年)と恋仲となり、周囲の反対を押し切って頼朝の妻となる。頼朝が反平家で挙兵した後は、平家打倒や鎌倉幕府の創始を陰ながら支え続ける。
 頼朝の死後、長男の頼家(1182~1204年)が鎌倉幕府第2代将軍となるが、政子の実家である北条家と対立したため、頼家は将軍の地位から追放されたうえ、伊豆の修善寺にて非業の死を遂げる。そこで次男の実朝(1192~1219年)が第3代将軍となり、朝廷での官位も右大臣という高位までなったが、頼家の子の公暁(1200~1219年)に鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺される。
 頼家・実朝といった息子のほか、長女であった大姫(1178~1197年)にも先立たれている。実朝の死後、政子は「尼将軍」として弟の幕府執権・北条義時(1163~1224年)とともに幕府の政治を進めたが、京都の朝廷の後鳥羽上皇(1180~1239年)と対立を深め、承久の乱(1221年)で朝廷と戦うこととなる。承久の乱は鎌倉幕府の勝利で終わり、その後1800年代まで続く武家政権の基礎をつくる。

鎌倉幕府首脳の動揺

 京都の朝廷と承久の乱で戦ったのは、鎌倉幕府の首脳にとってショックなことでした。なぜなら、古代より朝廷の敵(賊軍)が勝ったためしがなかったからです。

 幕府の首脳でさえショックを受けるのですから、多くの武士が動揺するのは言うまでもありません。一歩間違えると、多くの武士が朝廷側につく可能性さえありました。

 そこで武士たちに北条政子の屋敷に集まってもらい、政子から京都の朝廷・後鳥羽上皇を討つことを武士たちに訴えてもらったのです。

北条政子のプレゼン

 武士たちに向けて政子が、現代でいうところのプレゼンをしたのですが、その内容を山本みなみ著『史伝 北条政子 鎌倉幕府を導いた尼将軍』をもとに紹介します。

 まず、政子はプレゼンの冒頭で、大姫・頼朝・頼家・実朝と、自分が多くの親族に先立たれたことを嘆きます。そして、さらに弟の義時までも失えば、5度目の悲しみを味わうことになるとして、武士たちの同情を誘います。

武士たちへの訴え

 このように同情を誘って人心をつかんだうえで、本題に入ります。

「皆それぞれ心を一つにして聞きなさい。これは私の最後のことばである。亡き頼朝様は、源頼義・義家という清和源氏栄光の先祖の跡を継ぎ、東国武士を育むために、所領を安堵して生活を安らかにし、官位を思い通りに保証した。その恩はすでに須弥山(しゅみせん)よりも高く、大海よりも深いはずである。不忠の臣らの讒言によって後鳥羽上皇は天に背き、追討の宣旨をくだした。名声が失われることを恐れる者は、早く藤原秀康・三浦胤義を捕らえて、三代将軍ののこした鎌倉を守りなさい」

武士たちの利益を強調

 ポイントは、源頼朝は幕府を開いたことで、「所領を安堵して生活を安らかにし、官位を思い通りに保証した」という部分です。

 これは裏を返せば、「京都の朝廷に鎌倉幕府が討たれるようなことがあれば、あなたたち武士は以前のように朝廷に重い負担を課されたり、官位も低くなったりしますよ」と武士たちに問いかけているともいえます。

即決を迫る政子

 そして、締めくくりとして政子は、

「私は昔からものをはっきりいう人間だから、京都側について鎌倉を攻めるのか、鎌倉側について京都側を攻めるのか、ありのままに申せ」

 とその場で武士たちに選択を迫っています。

鎌倉幕府の勝利と武士の時代の到来

 本当に見事なプレゼンです。実際、武士たちは政子に同情するとともに、鎌倉幕府側につくことが合理的な判断だと考え、一致団結して京都に向かって攻め上がっていったのです。

そうして、鎌倉幕府は京都の朝廷に勝ち、本格的な武士の時代が到来したわけです。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。