「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。
![まるで現代のプレゼン術! 北条政子が武士を動かした「伝説の演説」](https://dol.ismcdn.jp/mwimgs/4/e/650/img_b5141a424129e105e796f4925466eb7f280395.jpg)
北条政子の生涯と鎌倉幕府の確立
頼朝の死後、長男の頼家(1182~1204年)が鎌倉幕府第2代将軍となるが、政子の実家である北条家と対立したため、頼家は将軍の地位から追放されたうえ、伊豆の修善寺にて非業の死を遂げる。そこで次男の実朝(1192~1219年)が第3代将軍となり、朝廷での官位も右大臣という高位までなったが、頼家の子の公暁(1200~1219年)に鎌倉の鶴岡八幡宮で暗殺される。
頼家・実朝といった息子のほか、長女であった大姫(1178~1197年)にも先立たれている。実朝の死後、政子は「尼将軍」として弟の幕府執権・北条義時(1163~1224年)とともに幕府の政治を進めたが、京都の朝廷の後鳥羽上皇(1180~1239年)と対立を深め、承久の乱(1221年)で朝廷と戦うこととなる。承久の乱は鎌倉幕府の勝利で終わり、その後1800年代まで続く武家政権の基礎をつくる。
鎌倉幕府首脳の動揺
京都の朝廷と承久の乱で戦ったのは、鎌倉幕府の首脳にとってショックなことでした。なぜなら、古代より朝廷の敵(賊軍)が勝ったためしがなかったからです。
幕府の首脳でさえショックを受けるのですから、多くの武士が動揺するのは言うまでもありません。一歩間違えると、多くの武士が朝廷側につく可能性さえありました。
そこで武士たちに北条政子の屋敷に集まってもらい、政子から京都の朝廷・後鳥羽上皇を討つことを武士たちに訴えてもらったのです。
北条政子のプレゼン
武士たちに向けて政子が、現代でいうところのプレゼンをしたのですが、その内容を山本みなみ著『史伝 北条政子 鎌倉幕府を導いた尼将軍』をもとに紹介します。
まず、政子はプレゼンの冒頭で、大姫・頼朝・頼家・実朝と、自分が多くの親族に先立たれたことを嘆きます。そして、さらに弟の義時までも失えば、5度目の悲しみを味わうことになるとして、武士たちの同情を誘います。
武士たちへの訴え
このように同情を誘って人心をつかんだうえで、本題に入ります。
武士たちの利益を強調
ポイントは、源頼朝は幕府を開いたことで、「所領を安堵して生活を安らかにし、官位を思い通りに保証した」という部分です。
これは裏を返せば、「京都の朝廷に鎌倉幕府が討たれるようなことがあれば、あなたたち武士は以前のように朝廷に重い負担を課されたり、官位も低くなったりしますよ」と武士たちに問いかけているともいえます。
即決を迫る政子
そして、締めくくりとして政子は、
「私は昔からものをはっきりいう人間だから、京都側について鎌倉を攻めるのか、鎌倉側について京都側を攻めるのか、ありのままに申せ」
とその場で武士たちに選択を迫っています。
鎌倉幕府の勝利と武士の時代の到来
本当に見事なプレゼンです。実際、武士たちは政子に同情するとともに、鎌倉幕府側につくことが合理的な判断だと考え、一致団結して京都に向かって攻め上がっていったのです。
そうして、鎌倉幕府は京都の朝廷に勝ち、本格的な武士の時代が到来したわけです。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。