【やばい世界史】十字軍は聖戦ではなく“商戦”だった――歴史の残酷な真実
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。
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そもそも、「十字軍」とは何なのか?
本日は、中世という時代に最初の転換点をもたらした、十字軍について見ていきましょう。
最初のきっかけは、東ローマ帝国の救援要請でした。イスラーム勢力(なかでもセルジューク朝)の進出に苦慮した東ローマ帝国は、ローマ教皇に援軍を要請します。といっても、この時の要請は、あくまで傭兵に余裕があれば斡旋してもらえないかといったニュアンスが強かったとされます。
しかし、この報を受けた教皇ウルバヌス2世は、ちょうどその時に開催されていたクレルモン教会会議の最終日に、居並ぶ聖俗諸侯(俗人や教会・修道院も含めた君主に直属する領主階層)らを前に訴えます。
「聖地エルサレムのキリスト教徒が異教徒のサラセン人(イスラーム教徒)に迫害されている、今こそキリスト教徒の手に聖地を取り戻すべきである」と。これが、第1回十字軍の始まりです(1095~1099)。
十字軍は通算8回(ないし9回)、およそ200年間にわたって繰り広げられましたが、しかしこれはあくまで「狭義の」十字軍に過ぎません。中世におけるヨーロッパは、「ローマ・カトリック圏」と定義できます。これは当時のヨーロッパ人(とりわけ神学者)たちも意識していた点であり、この観点から、十字軍は「異教徒(非カトリック)との戦い」と定義できます。この定義をもとにすると、「十字軍」の目的は以下の4つに大別できます。
(1)聖地
エルサレムの奪回・保持と十字軍国家の支援(狭義の十字軍)
(2)イベリア半島
南部のイスラーム教徒との一連の戦い=レコンキスタ(半島再征服運動)
(3)東ヨーロッパ
エルベ川以東、バルト海沿岸の異教徒との戦闘=東方植民・北方十字軍
(4)西ヨーロッパ
カトリック圏内の異端派との戦い
例)アルビジョワ十字軍(13世紀)
誰が、どんな動機で、十字軍を支えたのか?
本日は(1)についてのみ扱います。第1回十字軍に話を戻すと、クレルモン教会会議での教皇の呼びかけは、当時のヨーロッパの人々に熱狂をもって迎えられました。11世紀の後半になると、民族大移動が次第に落ち着きを見せ、また気候の温暖化と農業の改良により、人口が増加したのです。
一方では、各地で聖地をめぐる巡礼が流行したこともあり、当時のヨーロッパには外へと膨張する要因がそろっていたとも言えます。まさに、ヨーロッパ世界の拡大の始まりとなったのです。
死活問題だったのは領主たちで、フランスを中心に長子相続が定着し始めると、領主の次男以下は財産が分与されず、新天地に活路を見出したのです。このため、十字軍で主力となったのは領主(教会や俗人を含めた聖俗諸侯)一族でした。
十字軍は中世ではラテン語でPeregrinatioと呼ばれ、これは「巡礼」を意味する言葉であり、必ずしも組織的な軍事行動とは限りません。また、イタリアの都市共和国ヴェネツィアが主導権を握った第4回十字軍(1202~1204)では、東ローマ帝国を一時滅ぼし、十字軍国家であるラテン帝国を打ち立てるなど、次第に宗教的な目的から逸れた動向が目立つようになります。
(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の一部抜粋・編集を行ったものです)