「両利きの経営」は
経営の不在である

 なかでも名和先生が代表的な擬態例として指摘しているのが、「両利きの経営」です。「既存事業の深化」と「新規事業の探索」の二兎を追うこの手法は、いまや多くのビジネスパーソンが知るところであり、イノベーション戦略の柱に掲げている日本企業も少なくありません。ですが先生は、「両利きの経営では新規事業が大きくスケールするわけがなく、肝心の既存事業もどんどん先細ってしまう」と喝破されています。両利きの経営ブームに対する危機感の理由はどこにあるのでしょう。

 大前提として、この理論の発信地であるアメリカでいまは完全に否定されている、という事実を理解する必要があります。代表的な失敗例がスリーエムです。かつて100年以上にわたってイノベーションを生み出していた同社が、2000年代以降に迷走するようになった原因の一つが、まさにこの両利きの経営を取り入れたことでした。既存事業で培った技術や市場などの資産を活かせない飛び地を「探索」する一方、既存事業は同じところを掘り続ける「深化」に終始してしまった。その結果、かつての輝きを失い、企業価値(時価総額)も低迷を続けます。

 スリーエムにおけるイノベーションの危機を救ったのは、2005年にCEOに就任したジョージ・バックリーでした。自社の強みの本質とは何かを再定義したうえで、それが活きる隣接領域へと資産をずらし、そこをシステマティックかつ徹底的に広げることにしたのです。誤った深化と安易な探索の両方に終止符を打ったスリーエムは、復活を遂げました。にもかかわらず、おかしなことに同社が両利きの経営の成功事例のようにいわれてしまっている。まさに大きな誤解です。スリーエムは両利きの経営によって窮地に陥り、それをやめることで息を吹き返した。この事実をきちんと理解している人が少ないのは、とても残念なことです。

 事実、投資家も「両利き」には否定的です。ウォーレン・バフェットに代表される、本来の価値よりも割安な株式に投資するバリュー投資家は、既存事業の強みを徹底的に追求する企業にしか興味がなく、そこから切り離された新規事業を価値毀損と見なします。一方で、ペイパル創業者のピーター・ティールに代表される、新規事業の破壊的な成長に関心があるグロース投資家は、スケールアップとスピードアップに全身全霊で取り組むベンチャーにしか興味がありません。大企業の「探索ごっこ」は大化けしないとわかっているからです。

 それでも両利きの経営が一部の日本企業に人気があるのは、経営者にとって、イノベーション創出ストーリーを語るための便利なフレームワークになっているからでしょう。これまで通りに既存事業を掘り続け、片手間で新規事業を探索する。これなら何のリスクもないし、痛みを伴う意思決定も必要ない。はたしてこれで本当にイノベーションは生まれるのでしょうか。厳しい言い方かもしれませんが、両利きの経営はまさに「経営の不在」にほかならないのです。

 両利きの経営においては、とかく新規事業の探索が注目されがちです。ですが本当に重要なのは、既存事業の掘り下げです。馴染みのある事業ゆえに、一見するとそれほど難しくないように思えます。しかし、ひたすら垂直に掘り続けても新たな水脈や鉱脈に当たらない限り、非連続な成長にはつながりません。重要なのは「斜め」に掘ることで、そのためにはまず自社の強みとは何か、その本質をあらためてとらえ直す必要があります。

 では、ここで質問です。トヨタ自動車の強みはいったい何だといえるでしょうか。

 一般的には「ものづくり力」とされていますね。

 ええ、そう答える方が多いでしょう。しかし、私は別の点にあると考えています。それは、TPS(トヨタ生産方式)に象徴される進化の仕組みや、トヨタ流のすり合わせ型ものづくりを実現するエコシステムの構築力、言い換えれば「ものづくらせ力」です。

 こうした自社の強みの本質をとらえ、そのうえで優位性が活きるところへ斜めに掘り下げていく。私はこれを「再編集」する力と呼んでいます。その先に、初めて新たな市場が創造される、つまりイノベーションが実現するのです。

 ただし、スリーエムが実践したような隣接領域への軸足ずらしには、厳しい判断が伴います。ずらした先に、必ずしも十分なリターンが待っているとも限りません。タイミングも重要で、急ぎすぎると既存事業の縮退を早めることになりかねないし、かといって遅すぎると負のスパイラルに陥ってしまう。ですが、成長がピークの時こそ隣接領域へ軸足をずらして、強みを再編集する必要がある。そうしなければ本業が硬直化し、何か問題が起きても身動きが取れなくなってしまいます。身重な事業は、ピークアウトした後でも長く生き続けるためのしなやかさを持ち合わせることができないのです。

 一見すると「両利き」は何のリスクもないようですが、リスクのないところにリターンがないのは誰もが知るところです。本業と切り離して安易に新規事業を探索するのではなく、既存のものと異質なものとを結合し、自社の強みを再編集することが、持続的な進化のカギを握ります。単純化された切れ味のよい経営モデルや戦略論は、たしかに魅力的かもしれません。もちろん、既存事業を掘り下げるにしても軸足をずらすにしても、その方法や角度は無限に考えられます。いくつもの引き出しを持っていて、いつ、どのタイミングでそれを使うかが極めて重要で、それこそが経営者の仕事なのです。