日本古来の進化のリズム
「守破離」を取り戻す

 シン日本流について伺う前に、そもそもの日本流がどのようなものだったのか、振り返りたいと思います。新著では、低成長に苦しんできた日本企業を「歌を忘れたカナリヤ」に例えています。いま一度思い出すべき独自の歌、つまり日本流とは何かと問うならば、その元型は日本古来の進化のリズム「守破離(しゅはり)」であるとも述べています。芸道や武道における修業プロセスで使われる言葉ですが、これが企業経営にどう通底するのでしょう。

「守破離」は日本古来の学習の流儀であり、これを進化のリズムにまで昇華させたことにより、かつての日本企業は世界で存在感を示しました。「守」は、師の教えを忠実に守って基本を身につける段階です。「破」は、身につけた型をいったん破り、自分なりに考えて工夫する自立の段階を指します。言い換えれば、学習(ラーニング)と脱学習(アンラーニング)です。学ぶだけでなく、その教えに囚われずに異なる見方や方法でそれを超えていく。あらゆる進化は、この学習と脱学習のサイクルを回し続けることでもたらされます。

 しかし、型を破るだけでは同じ次元に留まり、新たな境地を切り拓くことはできません。それを可能にするのが「離」、言い換えればイノベーションです。こうやればイノベーションが実現できるという型があれば苦労しないのですが、残念ながらそういった魔法の杖は存在しません。ですが、拠るべきものはある。それが「規矩(きく)作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」と千利休が戒めた「本(もと)」です。まったくのゼロからリセットしたのでは、それまでの学びが無意味になってしまいます。蓄積の上に異次元の進化を果たすのが、「離」なのです。

 自信を失った日本企業が、欧米流経営という新しい型を身につけようと「守」にいそしんだのが、この30年でした。ですがそれは、先ほど述べたような表層的な真似事、つまり擬態に留まってしまい、「破」と「離」を通じた本質的な変化である「変態」に至ることはほとんどありませんでした。原点を忘れず、「本」の上にさらに学習と脱学習を重ねることで、超学習の「離」に至ることができる。武術や芸術などにおいても、経営においても、道を究めるにはこのプロセスを永遠に繰り返すことが重要です。

 守破離においては、剣道十段の人が存在しないように、これで完成ということはありません。同様に経営においても、日本のエクセレントカンパニーは安易に完成形を求めることなく、守破離を繰り返してきました。欧米の経営手法を貪欲に取り入れつつ、日本流と融合することで独自の経営モデルに仕立て上げ、みずからの強みを再編集してきたのです。シン日本流へバージョンアップするには、こうした守破離という進化のリズム、一種の運動論を取り戻さなければならない。私はそう考えています。

 かつてマイケル・ポーター教授が唱えたことで一世を風靡した「競争戦略」は、いまその役割を終えようとしています。シンプルに言えば、競争戦略は一定のパラダイムの下での陣取り合戦のようなものです。しかし破壊的な技術が次々と生まれ、ゲームのルールや市場の定義自体が揺らぐ中、仮に競争優位を築けたとしても、それは一瞬のことにすぎません。それよりもいまは、変化する環境に適応し、みずからの強みを再編集し続けるための「学習能力」が問われています。まさに、競争優位から学習優位への転換が始まっているのです。

 相手を打ち負かすのではなく、みずからが学び、変わり続けるということですね。

 その通りです。ただ環境に適応するだけでなく、個体ごとの競争を超えて、生態系全体で環境変化をとらえ、時に環境そのものに働きかけて共進化を遂げることが、生き残るための必須条件となります。そのためには内から開き、常に外とつながっている必要があります。淘汰されるのは、弱者でも環境に適応できない者でもなく、外とつながれていない孤絶した者になるでしょう。

 こう言うと、うちは共創戦略に力を入れているとか、オープンイノベーションのための拠点をつくったという話を聞かされることがよくあります。しかし、「成果は?」と聞くと、答えに窮してしまう人が少なくない。異質なものとの出会いの機会を増やすのは大切ですが、それをみずからの内に取り込んで結合できなければ、せいぜい足し算止まりでしょう。本来の異結合(クロスカップリング)は、掛け算でなければなりません。ここで重要になるのが、ダイバーシティではなくインクルージョン、つまり包摂する力です。

 これまで日本企業は同化することに長けていましたが、せっかく異質なものを内に取り込んでも、同質化してしまえば意味がありません。組織の中に目を向けてもそれは同じで、いまだに男性、日本人、昭和世代が本社の中心にいて、せっかく多様な人財がいても暗黙のうちに同化を求めようとする。これでは、それぞれが持つ個性や強みが失われるのは当然です。

 イノベーションはエッジ、際(きわ)で起こるものです。日本人の好きな表現にすれば、「現場」と言ってもいいでしょう。日本ではなく海外、本社ではなく現地拠点など、顧客やサプライヤーとの接点で起こる変化を見逃してはなりません。往々にしてこれに気づくのは、同化していない若者・よそ者・しれ者です。彼らが発見する「ゆらぎ」を異結合し、1から10、10から100へとスケールアップする仕組みをつくっていく必要があります。