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【人生はいつ開花するか分からない】文豪・中島敦が教える「生り年」の迎え方イラスト:塩井浩平

死に際に「書きたい、書きたい」
と言って泣く

中島敦(なかじま・あつし 1909~1942年)

東京生まれ。東京帝国大学国文科卒。代表作は『山月記』『李陵』など。生後間もないころに両親が別居し、父方の親戚に育てられる。小学5年生のときに父の仕事の都合で、当時日本が占領していた朝鮮に移住。思春期の合計5年半を朝鮮半島で過ごした。帰国後は第一高等学校を経て東京帝国大学に進学し、国文学を専攻。幼いころから学校の成績がよく高学歴のエリートだったにもかかわらず、いい就職先を見つけられず、くすぶっていた時期が長かった。死が迫った1年間で集中して創作にとり組み、名作を残す。30歳前後から気管支喘息の発作がひどくなり33歳で早世。

『光と風と夢』で芥川賞候補に

 中島は『光と風と夢』という作品を発表し、芥川賞候補になったのです。

 室生犀星や川端康成から高く評価され中央公論や筑摩書房から多くの執筆依頼が届くようになりました。

第二作品集の直後、病が悪化

 作品集の出版も求められ、昭和17(1942)年には、第一作品集が刊行されました。

 その後、パラオ時代の経験を題材にした小説『南島譚』を第二作品集として出版、これが11月のことです。

 しかし、この第二作品集が刊行された直後、体調が悪化し、中島は病院に入院。12月4日に喘息のため、33歳で亡くなってしまいます。

職業作家としての夢、
叶うも……命尽きる

 パラオから帰国し、職業作家として立ち上がろうと決意した中島でしたが、作家として認められるという悲願を達成し、作品集が次々と出版されるなかで命は尽きてしまいました。

 死の間際、涙を浮かべながら「書きたい、書きたい」「俺の頭のなかのものを、みんな吐き出してしまひたい」と言ったというのは前述のとおりです。

 その生涯を通じて、文学に対する強い情熱を持ち続けた作家ともいえるでしょう。

「生涯そのものが最大の傑作」

 平成31(2019)年9月から11月に、神奈川近代文学館で特別展「中島敦展―魅せられた旅人の短い生涯」が開催されました。

 編集委員を務めた作家・池澤夏樹は、本展の公式図録に寄せたエッセイ『知の系譜と自我の飛翔』で、このように綴っています。

中島敦の作品はどれも自立している。これを読むのに事前の知識などは必要ない。それでも、彼のような非私小説的な作家でも、その生涯を辿ることには意味がある。なぜならば、彼にあっては生涯もまた一つの作品であったから。あるいはそれこそが彼の最大の傑作であるから

「生り年」はある日、
突然やってくる

 命が限界に達した瞬間に、積み重ねてきたものがポンッと突然、形になった。自分の「生(な)り年」がいつ訪れるかは誰にも予想できません。

 読者のみなさんにも、「いつになったら芽が出るんだろう」と漠然とした思いにかられることがあるかもしれません。そんなときは、中島の人生を思い出し、作品に触れてみてほしいと思います。

※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。