●『赤い靴のタンゴ』奈良光枝
●『憧れの住む町』菅原都々子
●『イヨマンテの夜』伊藤久男
●『想い出のボレロ』高峰三枝子
●『桑港のチャイナ街』渡辺はま子
●『白い花の咲く頃』岡本敦郎
●『ダンスパーティーの夜』林伊佐緒
●『東京の門』越路吹雪
●『火の鳥』渡辺はま子、宇都美清
●『べサメ・ムーチョ~接吻の曲~』黒木曜子
●『星影の小径』小畑実
●『水色のワルツ』二葉あき子
●『山のかなたに』藤山一郎
1952年(昭和27年)
マッカーサーロスでジャズ流行!?
前年4月、連合国軍最高司令官総司令部マッカーサー元帥はその任を解かれた。朝鮮戦争を巡っての「中国本土の攻撃も辞せず」の声明が、直接の原因ともされた。
戦後の日本を牛耳り「鬼より怖いマッカーサー」と恐れられたが、一方で戦後の日本復興の最大の恩人としても愛された。前年4月16日、日本を飛び立つ日、羽田空港までの沿道には20万人もの人々が集まり別れを惜しんだほどだった。
マッカーサーは帰米後に「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」の名セリフを残したが、彼への敬愛の念の表れのように、日本ではやたらとジャズやアメリカンポップスの流行が目立った。
シャンソンにめぐり会う前の越路吹雪が『ビギン・ザ・ビギン』、ペギー葉山は『火の接吻』。「戦後はジャズが流行る」の言葉通りになる。これは第一次世界大戦後も『私の青空』や『月光値千金』など外国ナンバーが日本でヒットしたのと同じだったためだが、何といってもその先陣を切ったのは江利チエミだった。
『テネシーワルツ』でデビューすると、あっという間に人気スターの仲間入り。14才といえば美空ひばりと同い年齢(とし)だ。すでにひばりは4月に歌舞伎座を借り切っての「ひばり独唱会」を開催するほどに成長、記念曲として作られたのが『リンゴ追分』『お祭りマンボ』である。