中国社会を考察する上で理解が不可欠な
中国人の割り切り感&プラグマティズム
前回コラムでは、過渡期における中国政治は非民主的、即ち、政府の正当性が制度的に担保されていないにもかかわらず、「極端に悪いリーダー」が指導部のコンセンサスによって排除されやすいという構造を述べた。一方、「カリスマ不在の非機能的な集団指導体制」の下では、「極端に悪いリーダー」は自浄的に排除されうるが、「極端に良いリーダー」も出てこないことを検証した。
「良いリーダー」と「悪いリーダー」の区別もつかなくなるような、あるいは、良くも悪くもない、当たり障りのない平凡なリーダーが蔓延る「保守の時代」に入っていく可能性が高い、と結論づけた。
本稿では、この結論を念頭に置きながら、2012~2013年にかけて、前任者と後任者として「紅い政権交代」を演じた胡錦濤氏と習近平氏が、どういうリーダーなのかというテーマを検証するために、私が中国共産党による政治・ガバナンスを考える際に応用しているフレームワークを紹介することとしたい。
これまで本連載で言及してきたように、中国の政治体制における伝統的な特徴のひとつは「政府の正当性」(Accountability)の不在・欠陥にある。理由は、リーダーを含めた政府が国民によって選ばれていないからであり、「国民が政治を一部の権力者に委託している」という手続き・プロセスが制度的に踏まれていないからである。
それでも、政治が政治として機能するためには、政府は人民から何らかの「信任」を得なければならない。中国においては、その信任が「ガバナンスにおける結果・業績」に相当する。要するに、結果さえ残していれば、たとえ政府が民主的でなくても、リーダーが多少の腐敗を犯していても、政策実行のプロセスに透明性が欠けていても、人民は「それほど気にしない」ということだ。
2003~2012年にかけて、北京を拠点に生活しながら常々感じていたが、ある意味、中国人民ほど権力の横暴に無頓着で、政治の腐敗に忍耐的な民族は他に類を見ないように思う。多くの中国人が「腐敗は文化」と割り切っているように、「中国は歴史的にそうだから仕方がない」というメンタリティーもあるように感じる。中国人の血液に流れるプラグマティズムとも言えるだろう。
政治だけではない。経済活動、民間コミュニケーション、メディア報道、大学経営、地域活動、文化イベントなど、中国社会を構成するあらゆるファクターを俯瞰してみると、“割り切り感&プラグマティズム”というチャイニーズ・メンタリティーは、私たち外国人が中国政治を考察していく際に意外と役に立つ。
ただ単に、「中国人は民主主義なき政治を受け入れない」、「そろそろ民主化しないと中国社会はもたない」、「経済が市場メカニズムで動き始めているのだから政治も民主主義で動かすのがセオリーというものだ」などという、私たち“外側”からの論理展開のみでは、悠久かつ動的な中国政治にはアプローチしきれないと私は考える。