辻トシ子はオレンジ自由化の重要人物を米側に紹介
それにとどまらず、党総裁選のインテリジェンスを提供

 家電、自動車などの対米輸出が急増した1970年代、米国は膨張する貿易赤字に苛立ちを強めていた。貿易不均衡を是正するために日本が求められたのが、オレンジをはじめとした農産物の輸入拡大だった。いわゆる日米オレンジ問題だ。

 スガハラは、オレンジと牛肉の自由化に向けた日米交渉におけるロビイストとして米連邦議会から30万ドルを得て日本に乗り込んだ。だが、農産物の自由化は、農業団体の利権に関わるため一筋縄ではいかず、スガハラの手に余った。

 では、辻トシ子は、日米交渉の妥結に向けて、スガハラにどのような協力を行っていたのか。以下、進藤が入手したスガハラが作成した書簡(スガハラ文書)から、辻トシ子による協力の内容を明らかにしていく。

 スガハラが辻トシ子に期待したのは、日本の政界、官界とのパイプ役になることだった。

 1978年6月1日付のスガハラ文書では、スガハラが、彼女から日本側の“柑橘問題(the citrus problem)”のキーパーソンたちを紹介してもらったとFM社の役員らに報告している。キーパーソンとは、官房長官だった安倍晋太郎の秘書の清水二三夫(首相公邸で面談)、大蔵省(現財務省)の岸田俊輔国際金融局短期資金課長(岸田元首相の叔父)、農林省(現農林水産省)事務次官から自民党の参院議員に転じていた檜垣徳太郎、農林省官房長の松本作衛らである。辻トシ子はスガハラのために、そうそうたるメンバーとの面談をセッティングしてやったのだ。

 スガハラは当初、自民党の有力支持団体である愛媛県や静岡県の農協などに配慮するため、ミカンの出荷時期を避け、オフシーズンに限定してオレンジの輸入を拡大させる「季節自由化」を交渉の落としどころとして考えていた。ところが、交渉途中で思わぬ事実が発覚した。進藤が解説する。

「彼にとって誤算だったのは、ミカンの産地や農協よりも、輸入枠を割り当てられている91社の抵抗のほうが強かったことだ。輸入割当制度の下で最大のシェアを持っていた藤井治商事は青嵐会(せいらんかい。石原慎太郎ら自民党保守派が組織したグループ。福田赳夫親衛隊と呼ばれた)の主要メンバー、渡辺美智雄と親しかったとされる。こうした事情から、スガハラは渡辺と同商事の協力関係こそがオレンジ輸出拡大の最大の障壁と見なすようになった」

 青嵐会や福田派に近い業者は輸入枠という既得権を持ち、オレンジ輸入を牛耳っていた。輸入規制が緩和され、新たに業者が参入すればライバルが増えてオレンジ利権の旨味が薄れる。彼らはそれを懸念して自由化に抵抗した。

 スガハラが、日本政府と行った交渉でも、輸入枠をどうするかが論点となった。前出とは別のスガハラ文書では「日本の農林省と通商産業省(現経済産業省)は、新しい輸入枠を“91のギャング”以外に割り当てることで合意した」との記載がある。福田派の牙城だったオレンジ輸入枠を、他の輸入業者にも与えるところまでは交渉が進展していたのだ。

 実は、新しく輸入枠を得ようとしていた企業は、東京青果や京都青果といった、辻トシ子と宏池会に近い青果卸会社だった。東京青果社長の川田光義は宏池会の宮澤喜一の秘書から青果会社の社長に転じた異色の人物で、その兄は宏池会の創設者である池田勇人の総選挙における総括責任者だった。つまり、日米オレンジ問題は、「福田派&青嵐会」vs「宏池会」という派閥の代理戦争の側面があったのだ。

 以下は筆者が入手した辻トシ子の手帳である。1978年10月11日、もしくは14日の欄に、「食事 内田夫妻(京都青果)菅原夫妻」とある。

辻トシ子の手帳(1978年10月8~14日)辻トシ子の手帳(1978年10月8~14日) 拡大画像表示

 ここに出てくる「内田」とは、京都青果社長の内田昌一のことだ。内田は、宏池会会長を務め、京都2区を地盤としていた前尾繁三郎の有力な支援者だった。「菅原夫妻」とは、スガハラとその妻、Yoneのことである。オレンジの利権にありつこうとする面々が会食してから約1カ月後、重要なイベントがあった。

辻トシ子の手帳(1978年11月5~11日)辻トシ子の手帳(1978年11月5~11日) 拡大画像表示

 11月10日に、「内田」、スガハラを意味する「Kay」「Yone」などが赤坂の「たいや(たい家)」、もしくは「ざくろ」で食事をしたことが分かる。これは、大勝負に備えた打ち合わせの意味合いが強かったと考えられる。自民党幹事長で当時、宏池会会長でもあった大平への直談判を翌日に控えていたのだ。

 その大勝負の日が、進藤が筆者に手帳の調査をリクエストした11月11日だったのだ。

 手帳の同日の欄には前述の通り「大平邸」「ストーン」というメモがある。「21~30」という数字は夜9時から30分間を意味するとみられる。これは、東京・世田谷区瀬田にあった大平の私邸を、スガハラと辻トシ子が、米国の柑橘の一大産地であるフロリダ州選出のリチャード・ストーン上院議員を伴って訪れたことを示している。

 興味深いのは、11月11日というタイミングだ。同日は、自民党総裁選のさなかだったのだ。大平は10月21日に正式に出馬表明。11月1日に予備選挙が告示されていた。大平邸での密談で、何が話し合われたのかは分かっていない。しかし、かつての自民党総裁選といえば、億単位のカネが乱れ飛ぶことが珍しくなかった。もしかすると、議員らにばらまく「実弾」の原資についても密談の俎上に載せていたのかもしれない。

 結果として、大平は、福田優勢の下馬評を覆して総裁選を制した。宏池会としては、池田内閣以来、14年ぶりの“政権奪還”だった。

 スガハラ文書にも密談についての記載がある。書簡の作成日は大平政権が発足した12月7日付で、スガハラが辻トシ子に謝意を伝える内容になっている。

 書簡で、スガハラは「11月11日、ストーン上院議員、トミナガ氏(スガハラの部下)、私のために、大平氏の自宅で、あなた(辻トシ子)がセッティングしてくれた会談で、あなた方(宏池会)の候補者は人格者だと確信しました。(中略)彼(大平)に必要だったのは、国会議員と官僚からのより強い支持でした。この分野はあなたの専門であり、あなたの人脈が多くの浮動票を(大平に)もたらしたと確信しています」と述べている。

 この書簡でスガハラは、辻トシ子の総裁選の“票読み”が正しかったことを絶賛している。大手新聞も含めて福田が優勢とみていたが、彼女は早い段階から大平の勝利を予想していた。彼女は、選挙情勢のインテリジェンスまで提供していたのである。

 進藤は、彼女の暗躍についてこう評価する。

「単にスガハラからの依頼で動いていたようには見えない。むしろ辻トシ子は主体的、戦略的に、大平と福田の争いに絡んで、オレンジの輸入割り当てから排除されていた宏池会に近い企業をサポートした。スガハラがオレンジ問題で、(福田派ではなく)大平側にかなりコミットしたのは、彼女の誘導によるものだったと考えられる」

 総裁選を巡る辻トシ子の密謀は大成功だった。大平は首相の座に就き、宏池会系の輸入業者もオレンジを輸入できるようになった。米メイン大学元教授のハワード・B・ ションバーガーによれば、1978年12月の日米合意によって、日本はオレンジの輸入量をそれまでの年間4万5000トンから、1983年に8万2000トンまで拡大。オレンジなどのジュースの輸入も増やすことになった。

 オレンジの輸入枠の増加分、3万7000トンを扱うことによる売り上げを、1980年のオレンジ価格と為替レートで計算すると年間33億円になる。その全てを宏池会系の輸入業者が取り扱ったわけではないだろうが、オレンジの利権は輸入枠を獲得した業者を潤わせた。

 その後の1988年の日米交渉では、オレンジの輸入枠が撤廃され、関税さえ払えば自由に輸入できるようになった。オレンジ自由化で利益を得た企業による献金は、少なからず辻トシ子を通じて宏池会に流れたとみていいのではないだろうか。

 次回の#13『「昭和の女帝」と米情報機関の元工作員によるトヨタ車の輸出戦略、日米貿易摩擦をカネに変える500億円プロジェクトの全貌』(1月31日〈土〉公開予定)では、このオレンジ自由化を巡り、辻トシ子とスガハラのコンビは、政治的に勝利しただけでなく、ビジネスにおいても大きな商機をものにしたことを明らかにする。トヨタと大洋漁業(現マルハニチロ)を巻き込んだ巨額プロジェクトの詳細を解明する。(敬称略)

Key Visual by Noriyo Shinoda