ここなら、どなたを誘っても文句が出ないでしょう。時代の先端を走っている、「特上・手打ち蕎麦屋」をたっぷりとお見せします。

 難解な現代の空気を読みきった亭主たちのストラテジーと店づくり、あなたがまだ体験したことのない蕎麦と蕎麦料理。人を呼ぶ、そのオーラの暖簾をくぐってみませんか。

 帰る場所を「無」にすれば、自らの在り方を見失なわない。その証に「無庵」と名をつけて20年余。蕎麦を通して、パフォーマンスを表現してきた亭主がいます。

 この店には、音曲がセッションするような、オーラが響いています。

(1)店のオーラ
「無」こそ、新しいものを産む

 僕が立川の「無庵(むあん)」にぜひ行かなくてはならないと思ったのは、ある蕎麦屋に入ったときでした。そこの亭主は、東京郊外に昨年8月に蕎麦屋を開業したのですが、以前は、無庵のお弟子さんでした。彼は、無庵から独立後2年間、農業に入ったといいます。

 大概、高名な蕎麦屋修行を卒業すれば、直ぐに開店準備に入るのが通例です。が、そうしなかったことに僕は少なからず驚き、彼の修業先を見たくなったのです。

 それから直ぐに、昼と夜の2回、僕は「無庵」を訪問しました。あの弟子を育てた師匠の店は、想像以上のものだったことは確かでした。

親元の民家を改造、21年真っ直ぐに情熱を注いできた風格と風情が漂う。蕎麦屋の銘記が無いのは開店当時も今も同じです。

 この日、僕は取材を申し込んで、無庵の亭主と対面していました。

 「2月に蕎麦打ちを習って、10月に急いで蕎麦屋を開店してしまった」

 今から考えると、無茶苦茶な事をしたと、亭主の竹内さんが静かに語ります。

 実家の親元の古い家を改造して、自分の好きなものをここに運びました。膨大なジャズのアルバムを置き、蔵にあった先祖伝来の民芸品や趣味で買い求めた美術品を飾りつけ、使い物にならない骨董の瓦を持ってきて壁に埋め込みました。

 古い民家を店へと変貌させる、この作業は有頂天になるほど、楽しくて仕方がなかった、といいます。

 蕎麦屋を始めたのが、ある程度人生経験を経た40歳くらいでちょうどよかった、と竹内さんは、今振り返ります。実家の関連会社の役員からの転向でした。

 こうして、平成元年、今から21年前に「無庵」は誕生しました。

 だが、と言葉が続きます。

 「当初は来る日も来る日も、お客さんが一人か、二人」

 当時は手打ちと言えば、いわゆる老舗蕎麦屋が隆盛の頃です。一茶庵、本村庵、まつや、やぶ、布屋太兵衛系列、、砂場の分派支店などがあり、新しい名前では、モダニズムを標榜していた、柏の「竹やぶ」が目立っていたくらいでした。

料亭を思わせるお座敷は、8名が宴を囲めます。「写真右」は、ゆったりとコース料理を楽しめるテーブル席で、ジャズの音が静かに流れ、濃密な時間を感じる空間。

 誘導看板も掲げず、行灯に蕎麦屋の文字もない、店内にはモダンジャズの音が響く異端な蕎麦屋でした。

 しかし、手ごたえだけは確実にあったと言います。

 「彼から聞いた」「来てよかった」「あいつに紹介する」

 送る客からのありがたい言葉に、店を始めたのは失敗ではなかった、そう語る竹内さん。

 一年が過ぎる頃、客はさざ波が流れるように入りだしました。3年過ぎた頃には、客は大波が押し寄せるようになりました。

 「まだまだ、道半ばです」これだけの店に仕立てながら、竹内さんが微笑みます。