文部省唱歌を主導した高野辰之も、ついに詩人の創作物としての童謡を評価するようになった。1919(大正8)年から29(昭和4年)年まで童謡の隆盛が続いたことを、これまで本田美奈子さんのレパートリーを中心に概観してきた。今回は童謡の全盛期をもっと詳しくみてみよう。童謡歌手が誕生し、コンサートで歌い、レコードを大量に出した時代だ。ポピュラー音楽光芒の一条である。

4大童謡雑誌の詩人と作曲家

連載第39回で童謡全盛期の主要な詩人と作曲家を月刊誌別に分類したが、時系列で補足して、さらに詳しくまとめるとこうなる。

 「赤い鳥」(赤い鳥社)
・1918(大正7)年7月創刊、1929年3月休刊、1931年1月復刊、1936年10月廃刊
・主宰者(編集長)
  鈴木三重吉(1882-1936)
・童謡詩編集者
  北原白秋(1885-1942)
・主な作曲家
  成田為三(1893-1945)
  草川信(1893-1948)
  弘田龍太郎(1892-1952)
  山田耕筰(1886-1965)

 1918年に登場した「赤い鳥」は北原白秋が詩の責任者で、毎号新作を書いている。作曲家のうち、山田耕筰は創刊当初に声をかけられて何曲か提供したが、大半は東京音楽学校の後輩である成田、草川、弘田などに回し、自身は1925年以降に童謡の作曲を増やしている。山田は「赤い鳥」以外にも、雑誌「童話」「コドモノクニ」などに曲を提供している。西條八十作詞、成田為三作曲「かなりや」(1919)で「赤い鳥」の童謡は有名になるが、西條は1922年に「童話」へ移る。

 「金の船」「金の星」(金の星社)
・1919(大正8)年11月キンノツノ社より創刊、1922年5月金の船社へ移管、6月「金の星」に改題、1923年1月より金の星社。1929年7月廃刊
・主宰者(編集長)
  斎藤佐次郎(1893-1983)
・童謡詩編集者
  野口雨情(1882-1945)
・主な作曲家
  本居長世(1885-1945)
  中山晋平(1887-1952)
  藤井清水(1889-1944)

「赤い鳥」を追って斎藤佐次郎が創刊、斎藤は創刊当初、西條八十を詩の編集者として迎えようとしたが、西條は旧知の野口雨情を紹介する。作曲は中山晋平に依頼し、1年間で数曲提供したものの、芸術座から離れて小学校の教員をつとめており、ペンネームだったのだそうだ。晋平は斎藤に東京音楽学校の2歳上ですでに教官だった本居長世を紹介する。雨情・長世の作品が毎月掲載されるようになったのは1920年初頭からだ。晋平は1924年ごろから作品を増やしている。