死刑で母親が戻るなら「死刑にしてください」と言う
開沼 とはいえ、ちゃぶ台返しのようになりますが、直接会うことによって「生身の人間を知る」ことができる一方で、利害関係者、それこそ裁判員などが会ってしまうと、感情移入してしまう、「情にほだされる」可能性もあるんでしょうね。「情にほだされてしまったので、合理的な理由はないけど、今回は判決を緩めちゃいました」では、司法制度全体の信頼性も揺らぐ。だからこそ、基本的には客観証拠だけで判断しろという制度になっている。
大山 それが情じゃないかといったら、情もやっぱりありますね。でも、すべてがすべて情ではない。同情で許されるようなことはしてませんよ、あいつは。世界に1人しかおらん母親を殺しとるわけやから。
たしかに、赤の他人がその姿を見たとしたら情なのかもしれませんが、当事者の場合は情だけじゃない。弱々しくなってかわいそうだから許してあげようかな、というのとはちょっと違いますね。
開沼 死刑廃止論を語る際に「生きて償ってほしい」という言葉がありますが、償えるものでもないということですか。
大山 「償う」という言葉しかなかったので償うと書きましたけど、償うことはできないと思います。殺しに限っては絶対に。僕も今まで罪を犯してきて、バイクを盗んだこともあるし、相手にケガをさせたこともあります。それについて慰謝料を払ったり、盗んだものは新しいものに買い直して渡しました。そうしたことに関してはある程度罪を償えると思いますが、命に対する償いは絶対にできないと思います。戻ってこないんでね。
書籍の最後のページに、母さんに対する手紙を載せましたが、そこに書いてある通りで父親が死刑執行されることで母さんが戻ってくるなら、俺は快く「死刑にしてください」と今でも言うと思うんですよ。でも、それは叶わない願いだし、父親が死刑になっても何も変わらないと思います。
僕の中では、償いとういよりも、生きて反省し続けてほしいという感じなんです。刑務所の中の暮らしというのは、自分の犯した罪の大きさを十分に理解して、反省して、更生する場だと思います。
人を殺した人間が更生するのは難しいことかもしれないけど、今後も生きて反省し続けてほしい。生き地獄を味わってほしい、苦しめたいから死刑にしないということではありません。いつか出てきたときには、咎めたり責めることもなく、一緒に暮らせたらなという思いはありますから。
開沼 殺してしまって、死刑にしてしまって終わりというよりは、反省し続けることは、誰にとっていいことだと思いますか?遺族にとってということですか?それとも、「社会」にとって?
大山 遺族にとっても、反省し続けてもらうことが一番いいと思います。ただ、これは僕の立場だから言えるだけであって、まったく違う立場だったら「とんでもない!」と思う人もいるかもしれません。
開沼 そうでしょうね。
大山 死んだらそれまでだし、「そいつが死刑になって何が変わるの?」と思うんですよね。自分の手で殺せるわけでもないので。たとえば、僕に嫁と子どもがいたとします。こういうのはひどい例にしたほうがいいのかな……娘が変なヤツに強姦されて殺されたと。そのときは、自分の手で殺してやりたいほど憎いだろうし、そいつの死刑判決が確定して、自分の手で殺せるならスッキリするかもしれません。
それが知らぬ間に死刑にされて、身内だろうが、遺族だろうが、加害者の家族だろうが、死刑が今日執行されますという通知は来ません。テレビや新聞を見てそこで知るんでしょうけど、なんの実感も湧かないと思うんですね、死刑にされるところを見られるわけでもありませんから。それならば、アメリカでは懲役200年とかあるじゃないですか、そのほうが遺族のためにもなるんじゃないかなと思います。