死刑囚も生身の人間だと気づいた父親との面会
開沼 なるほど。「情緒はいいから論理でわかれ」と。これは、それこそ「感動しました系」や「共感しました系」の人には響かないですよね。「そうですね、共感しました」と言われてしまう。「そうではなく、一緒に考えてくれ」といくら言っても「そうですね、感動しました」「いいね!」というリアクションしか返ってこない。
これは、私も震災後の社会の研究をしているなかで痛感します。たとえば、「被災地の物語」はすぐに「子ども・年寄り・動物」に回収される。今年の3月11日にも、「被災地の子ども・年寄り・動物」で「感動・共感」パターンが溢れることでしょう。それはそれでいいと思いますが、問題は、その「感動・共感」がどれだけ持続するのかということです。
同じパターンを何度も繰り返すと、はじめは集まってきてくれた人も次第に飽きていきます。論理は持続しても、情緒は飽きる。「うさぎを抱きしめて、子どものように涙する大山さん」への共感も大切ですが、共感した次に、あなたは具体的に何を考えたの、何をしてくれるの、どこへ進んでいくの、と問えることが重要だと思います。大山さんは、何について考えてもらいたいと思っていますか?
大山 具体的に言うと、死刑制度や加害者家族に対する差別ですけど、正直、僕自身も何が答え、どれが正解かはわからない。まったく答えは見つかってないし、常に考えている状態なんですけど、考えることが大切で、問題と向き合ってしっかりと考えたうえで、それぞれがそれぞれの答えにたどり着いてくれたらいいかなと思っています。
昨日の今日まで何も考えていないのに、裁判員裁判制度に選ばれたから「じゃあ、ちょっと考えにゃいけんな」では遅い。こういう経験をした人もいるということも、僕のような思いを持っている人もいることも知ってほしい。
僕自身、死刑制度には反対していません。僕のケースだからこの答えにたどり着いただけであって、人の数だけ答えはあると思います。目を背けずに向き合ってほしいという思いだけですね。
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年~)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。
開沼 答えが難しいと承知のうえで聞いてしまいますが、死刑制度に反対ではないと考えているなかで、死刑制度はどうあるべきだと思いますか?いまの制度にはどんな問題があると思いますか?
大山 今回は、僕が被害者遺族という立場で出ていますが、すべての遺族を代弁しているわけではありません。お母さんの親戚はお父さんの死刑を心から望んでいるし、そうではないケースも絶対にあると思います。仮にですよ、もし遺族の誰もが父親の死刑を願っていないという状況でも、保険金目的で2人殺してしまった場合、死刑が確定することもあると思います。
裁判員裁判制度が始まって、被害者遺族が望まない加害者の死刑も存在するということを知ってもらったうえで臨んでもらえたら、情状酌量ではありませんけど、もう少し結果が変わってくるんじゃないかなと思うんですよ。実際に、刑務所に入って弱々しい姿の父親と面会することがなければ、僕も死刑を望んでいましたし。
愛知県に原田正治さんという方がいらっしゃいます。原田さんの弟さんは、会社の社長に保険金目的で殺害されています。最初は死刑を希望していましたが、接見を重ねるごとに、死刑でなくて生きて罪を償ってほしいと思いが変わったようです。本当にケースバイケースで、安易に死刑を廃止しほしいとも言えません。
言ってしまえば逃げとるんですね、答えが出せないから。死刑反対とは言えないと。そこを突っ込まれたら、本当にいまも返答ができません。いくら考えても答えが見つからないので。ゴール地点は何なのかと聞かれたら着地点はないし、すごく難しいところですね、それは。
開沼 直接会った瞬間に思いが変わるというのは、とても興味深い点です。人が人を裁く過程で、もちろん検察官には会っているわけですが、裁判官も基本は法廷で会う形だろうし、裁判員もそうですよね。で、事前に資料を見ている段階では、とんでもない殺人鬼を想定しているところから始まるわけじゃないですか。
一方で、そうした前提なく顔を見合わせて、「やつれているな」「精神的にまいっているな」という状態を見るのとでは判断が違ってくる可能性があるわけですよね。いかなる判決を出すにせよ、人が人を裁くときは、そちらの部分を見なくてはいけないはずなのに。
大山 悪い面しか見ないですからね。
開沼 大山さんがお父さんに会った瞬間に起きた気持ちの転換は、裁判官や裁判員が予断を持って臨んでしまっている瞬間と重なり、そうではない、生身の人間がそこにいるんだと思い返した瞬間でもあるわけですか?
大山 そうですね。接見する前は、父親が犯した罪しか見ていませんでした。つらい思いもしているので、憎しみしかありませんでした。ただ、実際に会ってみると、生身の人間を見たという気持ちです。