頼りになるキーパーソン
前にも触れたが大東金属が約20年前にピンチに陥り、1年半かけて社員を40%削減したとき、岡田はある事業所の運輸課長をしていた。
メーカーは直接生産部門を最後まで温存しなければならないと考える岡田は、自分の所管する運輸課のような間接部門は50%以上の人員を削減しなければならないと決意した。
しかし、日本の産業界全般が不況にあえいでいたとき、やめていく人びとの再就職はなかなか進まなかった。
岡田は、人事部の就職斡旋担当者に頼むだけでなく、自らも走り回って部下の就職斡旋に努力した。一方、人員の減少した職場の安全と効率化を目ざして、さまざまな工夫を重ねた。就職先が見つからないままやめていく人びとのことを思うと、岡田は夜もゆっくり寝ていられなかった。
岡田のこの誠意が実って、運輸課はその事業所でもっとも高い率で退職者を出したにもかかわらず、大きな問題ひとつ起こさなかった。
苦しい1年半が過ぎて、人員縮小措置が終了しようとしているとき、岡田は自分の辞表を提出した。
会社はこれを受理しなかった。岡田のような管理者こそ、それからの再建途上に必要な人材だったからである。
しかし、部下を犠牲にして、自分だけが社内に残るわけにはいかないという岡田の決意も固かった。会社と岡田の数回にわたるやりとりの結果、岡田は親会社を退社するかわりに、子会社の太宝工業でプロパーの社員として働くという形で、やっと妥協が成立した。
以来20年、太宝工業のなかで岡田は昇進して、現在の職にある。
岡田は今でも、20年前に退職した部下たちの年1回の会合には必ず呼ばれ、はるばるその地まで出かけて行く、という話を沢井は耳にしていた。
岡田にまつわるこの話は、親会社のなかの伝説の一つとして、今でも伝えられている。
岡田は、赴任にあたって、沢井が頼りにすべき人材とひそかに考えていた人物であった。