「課題の分離」とは何か

神保 対人関係に関連して、アドラー心理学の非常に重要なキーワードに「課題の分離」というのがあります。これについて触れていきたいと思います。

宮台真司(みやだい・しんじ)
首都大学東京教授/社会学者。1959年仙台生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京都立大学助教授、首都大学東京准教授を経て現職。専門は社会システム論。博士論文は『権力の予期理論』。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で著書多数。主な著作に『制服少女たちの選択』『終わりなき日常を生きろ』『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』『14歳からの社会学』『日本の難点』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』などがある。宮台真司オフィシャルブログ

宮台 社会学者として言うと、「課題の分離」は日本の社会にありがちな弱点に関係します。親が、子どもの課題と自分の課題の区別がつかなくなり、それによって子どもも、親の課題と自分の課題の区別がつかなくなる、というのが、最終目的を他人に握られるケースの典型です。

神保 その「課題の分離」について、できれば具体的な事例で、岸見先生は実際にカウンセリングをやられているので、その実例を引きながらご説明いただけますか。

岸見 アドラーは、「あること」の結末が最終的に誰に降りかかるか、あるいは「あること」の最終的な責任を誰が引き受けなければならないかを考えたとき、その「あること」が誰の課題であるかがわかる、という言い方をします。具体例をいうと、私は「勉強することは誰の課題か」と、実際にカウンセリングの場面で親に尋ねます。自分の子どもが勉強しないからと相談に来られる親御さんは非常に多い。そこで、勉強しないことの結末は最終的に誰に降りかかるか、あるいは最終的な責任は誰が引き受けなければならないかを考えてもらい、「勉強をするかしないかは、誰の課題でしょう」と質問するのです。
 すぐに「それは子どもの課題です」と答える人は実はあまり多くない。「まぁ理屈としては子どもの課題ですよね」って首をかしげながら答える人が圧倒的に多いわけです。でも実際のところ、勉強しなければ困るのは子どもであって、別に親の頭が悪くなるわけではない。高校入試などで志望校の選択範囲がうんと狭くなるなど、責任は子どもが取らなければなりません。だから勉強は子どもの課題なのです。このことを親が認めれば、それまで無邪気にあるいは無意識に言ってきた「勉強しなさい」という言葉は、言ってはいけないし、そもそも言えないことになります。およそあらゆる対人関係のトラブルは、人の課題に土足で踏み込むこと、あるいは踏み込まれることから起こるとアドラー心理学では考えます。

神保 では、勉強しない子どもに「勉強しろ」と言ってはいけないというところから始まるんですね。そもそも、自分の課題じゃないんだからと。

岸見 あるいは、言わなくてもいいということですね。

宮台 日本にも昔からそういう言い方はありましたよね。「困るとすれば自分だから、好きにすればいい」と。僕もいつもそればかり言っています。

神保 でも、そう言われても「はい、そうですか」と言えない親は多いですよね。やはり勉強してもらわなきゃ困る、いい学校に入ってもらわなきゃ困ると。それが子どもの将来のためだと。

岸見 そこがポイントです。要するに「あなたのため」というところが胡散臭い。自分のためなのです、率直に言うと。

神保 親が自分のために言っている。

岸見 でも、そうは言えないというか、言いたくないので、「あなたのためを思って言っているのよ」などと言葉を補足しながら、「勉強しなさい」と親は言うわけです。

宮台 ここは重大なトラブルに結びつくポイントです。僕は性愛ワークショップで〈親への恨み〉をキーワードにします。実際それが障害になっているケースが大半です。親の言う通り、つまり親の課題と自分の課題の分離に失敗したまま、一生懸命勉強する。「勉強して東大に入れば、あとは何でもできる」と言われてきたとします。
 で、実際、東大に入ったけど、モテないし親友もできない。人間関係を自由にハンドリングして青春を謳歌する周囲を見て、妬み嫉みなど浅ましき感情に駆られた挙げ句、「ママの言う通りにしてきたのに、話が違うじゃないか!」となる。これは依存的暴力としての家庭内暴力につながります。〈親への恨み〉の背後に「課題分離の失敗」があるんです。

神保 では、勉強しなさいと言ってはいけないとして、それで終わりですか? その次のアドバイスはないんですか、親に対して。

岸見 その次はあるのですが、あまり言いたくはないです。カウンセリングだと「勉強しなさいと言ってはいけない」でとりあえず終わります。で、どうなったかを次回に報告してもらう。

神保 なるほど。

岸見 とりあえず1週間経ってからもう一度お聞きすると、「やはり勉強しません」と言われる。「でも子どもが勉強しないからといってあなたは困らない。勉強しない人生も美しい人生ですよ」と、僕は断言します。いずれにせよ、親が子どもの人生を生きるわけではないので、「とりあえず、勉強について話すのをやめませんか」と、さらに言います。
 実際はその次がないわけではありません。つまり、本来は子どもの課題であるものを、親と子どもの共同の課題にするのです。それは不可能ではない。ただ、それを言ってしまうと、親は何でもかんでも共同の課題になると勘違いして平気で子どもの課題に介入するので、あまり言いたくはありません。
 先ほど言いましたが、人の課題に土足で踏み込むこと、踏み込まれることから、対人関係のトラブルは起こります。土足で踏み込まなければ、対人関係がこじれるリスクはある程度避けられます。だから土足で踏み込まず、共同の課題にする手続きを踏めばいいわけです。具体的に言うと「最近のあなたの様子を見ていると、あまり勉強しているようには見えません。そのことについて一度話し合いをしたいのですが、いいですか」と伝えるのです。

神保 子どもに?

岸見 はい。多くの場合「嫌だ」と言われますよね。そうしたら、「事態はあなたが思っているほど楽観できる状況だとは思わないけれど、またいつでも相談したいことがあれば言ってください」と、それで終わらせるしかないですね。