帝国劇場と契約した三浦環(1911年)

 ここからフィクションのような話が続く。

 藤井と離婚後、遠縁の東京帝国大学医学部助手、三浦政太郎から求婚されるが、環はのらりくらりとしていたそうだ。1909年、2年前に別れた前夫の藤井が赴任先の仙台から上京し、環と料理茶屋(現在の料亭)で会うことになった。藤井は再婚することになり、その報告もあったようだ。ところが、なんと「三浦政太郎と環が密会していた」というゴシップ記事になって「報知新聞」に出てしまう。

 独身男女が何をしようが自由だろうが、環はあまりにも有名だったので、おもしろおかしく書かれてしまった。取材され、記事が出る直前に環は父親とともに三浦に会い、善後策を検討するのだが、三浦は「環さんと結婚出来れば、こんな記事なんて問題じゃありません」(三浦環、吉本明光、前掲書)と言う。

 けっきょく環は翌1910年に三浦政太郎と婚約することになる。三浦は環の音楽活動を歓迎する、と言ったのだそうだ。

「報知新聞」に記事が出ると、環は東京音楽学校に辞表を出し、「依願免本官」の辞令は明治42(1909年)9月13日付で受け取った。三浦と環は翌年婚約するが、結婚したのは1913年9月である。この間、三浦は東大を辞め、シンガポールの三井ゴム園病院院長として赴任する。1年間勤務すれば給料のほかに退職金1万円という高額な報酬が提示された。

 三浦と環はともにドイツへ留学しようと考えており、この退職金を2人の留学費用に当てることにした。三浦政太郎が単身でシンガポールへ赴任していたとき、東京音楽学校を離れた環は設立されたばかりの帝国劇場で歌うことになった。

 1911(明治44)年3月に開場した帝国劇場については、連載第37回で松井須磨子(1886-1919)の「カチューシャの唄」を中心にして詳述した。今回は三浦環の側からみてみる。この年、須磨子は25歳、環は27歳だった。

 まずは帝国劇場の由来から復習を。

「欧化政策のために政府が社交場として設立した鹿鳴館(1883-)とは違い、日本の舞台芸術を発展させて外国からの来場者に日本文化を広報する、という目的だった。つまり西洋音楽やオペラの上演が第一の目的ではなかったのである。初期のプログラムを見ると、和洋混在し、オペラの上演や歌舞伎、演劇まで幅広い」(連載第37回)。

 帝国劇場株式会社の設立は1907年2月で、役員には欧米に留学経験のある財界人が並んだ。発足時の顔ぶれは以下のとおり。

取締役会長
・渋沢栄一(1840-1931)日本資本主義の設計者、多くの企業を設立
専務取締役
・西野恵之助(1864-1945)慶応義塾出身、山陽鉄道を経て帝劇へ
取締役  
・大倉喜八郎(1837-1928)大倉財閥の創設者、戦前の帝国ホテル経営
・福沢桃介(1868-1938)慶応義塾出身、福沢諭吉の女婿。実業家
・益田太郎(1875-1953)ベルギーの大学出身、益田孝の次男、劇作家
・日比翁助(1860-1931)慶応義塾出身、三越呉服店専務
・田中常徳(1860-1923)日本郵船、麒麟麦酒経営者
・手塚猛昌(1853-1932)慶応義塾出身、庚寅新誌社で月刊時刻表創刊
監査役  
・浅野総一郎(1848-1930)浅野セメントなど浅野財閥創始者
・村井吉兵衛(1864-1926)両切り紙巻タバコで財を成す
芸術顧問 
・末松謙澄(1855-1920)ジャーナリスト、外交官、政治家
・坂田貞一(未詳)
・高橋義雄(1861-1937)慶応義塾出身、三越呉服店を経て茶人
・和田英作(1874-1959)東京美術学校教授、洋画家
劇場設計 
・横河民輔(1864-1945)建築家、横河電機創業者、三井本館など設計

 実質的には西野恵之助が経営を切り盛りした。取締役の益田太郎は劇作家、作曲家として多くの作品を提供している。益田については稿をあらためて紹介する。