1912(明治45・大正元)年

帝国劇場プログラム
2月2日~26日

「塩原高尾」(右田寅彦作)
「日の出」(佐藤紅緑作)
「歌劇熊野(ゆや)」(杉谷代水作詞)
「陽気な女房」(シェイクスピア作、松居松葉訳)
「梅松竹」

「熊野」で帝劇女優に清水金太郎、柴田環(三浦環)加入。能の「熊野」を題材にしたオリジナルの脚本に、東京音楽学校のドイツ人教授、アウグスト・ユンケル(1868-1944)が作曲した作品。

「熊野」について、環は自伝でこう語っている。

「この『熊野』は当時非常に野心的な作品でした。背景も衣裳も全部歌舞伎風、それに西洋音楽の独唱、合唱とオーケストラを使ったのでして、うまくゆけば、日本独特の歌劇が生まれる。私たち出演者は勿論作者も、それから当時帝劇専務で、こうした新しい歌劇運動に非常な情熱を捧げた西野恵之助さんも、一同燃えるような意気で熱演しましたが、結果は失敗、第一は歌舞伎風の衣裳背景から出る雰囲気と西洋音楽がしっくりとけ合わない、第二がこの歌劇「熊野」だけを上演するのではなく、興行政策のために、幸四郎、梅幸、宗十郎、宗之助、松助等の帝劇専属俳優の歌舞伎の間に挟んで上演した。だから観客が、こうした歌劇運動に対して情熱や理解はおろか、興味すらもっていない、昔ながらの芝居見物なのです」(三浦環、吉本明光『三浦環のお蝶夫人』(音楽之友社、1955)。

 歌舞伎の衣裳で能を演じ、ベルカントで歌うわけだから、1970年代の「現代音楽」のようなものだっただろう。共演した清水金太郎(1889-1932)は、東京音楽学校声楽科を卒業して「熊野」でデビューしたのだそうだ。帝劇歌劇部には環と同様、指導者含みで招聘されている。帝劇がオペラから撤退した1915年以降はローヤル館、浅草オペラの各劇場で活躍し、「シミキン」の愛称で知られた。

 帝劇の「熊野」を、宝塚少女歌劇の準備を進めていた阪急社長、小林一三が見ていた。小林は「熊野」についてこう書き残している。

「まだ宝塚を創めない前に、私は帝劇でオペラを見たことがある。三浦環や清水金太郎らが出ていて、演し物は『熊野(ゆや)』であった。ところが、それを見ながら観客はゲラゲラ笑っている。そのころの観客は大体芝居のセリフ、講談のセリフを聞きつけている人たちだから、『もォーしもォーし』といって奇声を発しているのがおかしくてしようがない。だが見渡すと、それを笑わないでいる一団が三階席にいた。(略)僕はそこへ行って、/『あなた方、これがおもしろいのですか』と聞くと、/『三浦さんはこうだ、清水金太郎はこうだ』と批評をする。それは音楽学校の生徒であった。私には音楽学校でそういうものを習っているな、ということがわかった。オペラの将来が洋々と展けていることを知った」(小林一三『宝塚漫筆』阪急電鉄、1980)。

 大半の観客はまったく創作オペラを理解していなかったが、音楽学校の生徒は熱心に聴いている。めざとく見つけて意見を聞きに行く小林一三の嗅覚に驚く。宝塚少女歌劇の第1回公演は1914年だから、「熊野」の2年後、今からちょうど100年前である。

 小林一三の構想は三越少年音楽隊を参考にしたのだが、帝劇で始まったオペラも大いに参考になったというわけである。