協和音というのは、なかなかいい表現だと思いませんか? まったく同じ音である同音は無理でも、調和し合う協和音で十分だとすれば、まだなんとかなりそうです。同音になるというのはさすがに確率的に難しいでしょうが、違う音でも響き合えばいいということなら確率は少し高くなりますよね。
同じ人間である限り、条件さえ理解できれば、この場合、これが起こったら苦しいだろうなとか、嬉しいだろうなというのは想像できるはずです。したがって、その限りであれば、自分の主観で他者の気持ちを量っていいわけです。というより、そうするしかありません。
ここで私が大事だと思うのは、誰もが協和音を前提にするということです。同感されるほうも、しょせん相手に分かるのはこの程度だと認識していれば、多少同感がずれていても、つまりわかってなさそうなときも、納得がいくと思うのです。
相手に完璧な同感、いわば同音を求めるのはないものねだりです。それだと「誰も自分のことをわかってくれない」などと嘆くはめになってしまいます。自分が人に共鳴するときも協和音程度、自分が人に求める共鳴もまた協和音程度。そんなコンセンサスが社会に求められるのではないでしょうか。