これまでのところで触れていない章についても、簡単に内容を紹介しておこう。
第1章「伝説的な失敗――フォード社エドセルの物語」は、史上空前のマーケティングの失敗事例を検証する。自動車産業が拡大し、中間価格帯の車の需要が高まることが確実視されていた1955年、フォード社の経営陣はかつてない先端的な乗用車の開発プロジェクトを承認した。精鋭チームが綿密な市場調査にもとづいて自信満々で市場に送り出したエドセルは、後世に語り継がれる失敗作となった。いったいどこで間違えたのか。華々しく打ち上げた新製品が生産中止に追い込まれた理由について、開発チームのメンバーだけでなく、多くの人々が理由を説明しようと試みた。
フォード社は巨額の損失を蒙ったが、その痛手は一時的なものだった。そして興味深いことに、エドセル開発に関わったリーダーたちは、伝説的な失敗に至るまでの誇らしい経験を懐かしみながら、それぞれに豊かな人生を歩んでゆく。
第2章「公正さの基準――テキサス・ガルフ・サルファー社インサイダー事件」は、それまで黙認されてきたインサイダー取引の違法性が正面から問われた画期的な裁判をめぐる物語だ。1963年、テキサス・ガルフ社の地質学者たちは、トロント北西の極寒の地で秘かに地質調査を進めていた。莫大な経済価値のある鉱床が存在する可能性が高まるにつれ、採掘現場で作業にあたる地質学者、ニューヨーク本社の役員、そして彼らの家族たちは、同社の株式やオプションをこぞって買った。1942年に証券詐欺防止条項が制定された後、実際にそれが発動されることは稀だったが、テキサス・ガルフの関係者たちは証券取引委員会(SEC)による訴追を受け、2年にわたる裁判の主人公となる。法廷での激しい攻防の末、逆転勝利を果たしたのはSECだった。
第7章「二つ目の人生――ある理想的なビジネスマンの記録」は、国際的な資源開発ビジネスを成功させた人物の物語である。テネシー川流域開発公社(TVA)の総裁として巨大な公共事業を指揮し、アメリカ原子力委員会の委員長をも務めたデイヴィッド・リリエンソールは1950年に50歳で退任し、第二の人生を模索し始めた。彼は紆余曲折を経て、余命宣告を受けた企業を建て直し、飛躍的に成長させる経営手腕を発揮した。そして、官から民へと立場を移して心に葛藤を抱えながらも、利潤の追求と公共の利益の増進という目標を両立させようと挑戦する。
リリエンソールについては、『TVA―民主主義は進展する』(1949年、岩波書店)、『私はかく信ずる』(1951年、岩波書店)、『ビッグ・ビジネス―大企業の新しい役割』(1956年、ダイヤモンド社)、『リリエンソール日記』(1968~1969三部作、みすず書房)など、いくつもの著作が邦訳されているように、日本でも影響力を誇った論客だ。本章では、彼の日記に触れつつ、その哲学や人間的魅力を知ることができる。
第8章「道化の効能――いくつかの株主総会にて」は、企業経営に影響を与える存在として注目を浴びるようになったアクティビスト(物言う株主)の振る舞いをコミカルに描いている。現在、アメリカでアクティビストといえば、年金基金などの機関投資家や、企業の敵対的買収を狙うファンドなど、組織的な勢力を指すことが多い。しかし、まだ牧歌的だった1966年、大企業を揺さぶったのは個人投資家たちだった。企業の活動に無関心な一般株主の議決権を預かり、ときに攻撃的で、ときにドタバタ喜劇の道化さながらの役割を演じるアクティビストたちは、株式会社の運営のあり方、さらに言えば間接民主制の政治に一石を投じているのだと著者は指摘する。そしてまた、経営者と株主が向き合う株主総会は、経営者が仮面を脱ぎ、個性ある人間として真の姿を垣間見せる数少ない舞台でもある。
第9章「束の間の大暴落――永遠のホセ・デ・ラ・ヴェガ」は、人間の本質という視点から相場の世界を俯瞰する。1962年5月、ニューヨークの株式市場は1929年以来の大暴落に見舞われる。それは10年以上にもわたる右肩上がりの相場の後のことだった。大幅な下落の翌日、ダウ平均株価は突如として猛反発し、下落幅の大半を取り戻した。不合理な株価の動きの根底にあるのは、普遍的な人間の思考パターンである。17世紀のオランダに暮らし、アムステルダムに誕生した世界最古の証券取引所を観察した商人ホセ・デ・ラ・ヴェガは、証券市場に関する初の書籍『混沌とした相場の世界』を著した。彼の残した格言の数々が、300年後の1960年代のウォール街に投影される。
第10章「営業秘密の変遷――ダンス、クッキー、宇宙服」は、アメリカとソ連が宇宙開発競争を繰り広げていた時代の営業秘密をめぐる裁判の内幕である。ある宇宙服メーカーの若手技術者は、匿名の相手から好条件での移籍の誘いを受ける。その相手とは言うまでもなく、競合の宇宙服メーカーだった。退職の意思を切りだした彼と上司の感情的なもつれは法廷闘争に発展し、その判決は技術者と雇用主の関係のあり方を問うものとして世間の注目を集めることになる。
いまでは日本でも転職がごく普通のこととなり、営業秘密の保護や技術力の維持が企業の今日的な課題として議論されている。本章の考察は日本とアメリカの労働観のちがいを考える材料にもなりそうだ。
時代は変わる。しかし、人間の本質はそれほど変わらない。ブルックス氏は17世紀のユダヤ人商人の著作を引用したり、シェイクスピアをはじめとするエリザベス朝演劇のモチーフを引き合いに出したりするが、そんなところにも人間の普遍性を見つめる姿勢が表れているように思われる。本書に記された歴史的な成功や失敗の経験には、ビジネスという冒険に踏み出す誰にとっても貴重な教訓があるはずだ。本書はこのめまぐるしい現代においてしばし立ち止まり、よりよい方向に進路を取るための助けになるのではないだろうか。