この連載の担当編集者から、以下のメールが届いたのは12月4日。

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  『国籍法改正案の審議が進んでいます。報道自体、あまり目にすることがないですが、新聞記事によると「改正案は国会議員も内容をよく把握しないまま、成立へと向かって突き進んでいる」とありました。「偽装認知が横行するのでは」とか「二重国籍を認めるのか」など、批判の声もあがっているようですが、問題の本質が今ひとつ見えてきません。

 国や国籍といったものが俎上にのせられると、簡単に共同幻想に乗っかってしまう人が少なくないように感じています。』
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 優れた猛獣使いは、「自分はコントロールされていると猛獣に思わせないままに猛獣をコントロールする術に長けている人であるとの記述を何かで読んだことがあるけれど、まさしく彼はその猛獣使いのメソッドを体得した編集者といえるだろう。決して押しつけがましくはないけれど、でもそのネタなら書いてみようかとの気にさせてしまう。

 とはいえ国籍法だけで話を終わらせてはつまらない。彼も書くように、国籍法について書くのなら、国や国籍とはそもそも何なのかとの考察にまで至りたい。でもこのテーマは大仕事だ。

 などと考えていたらメールが届いた翌日である5日に、参院本会議で改正国籍法は可決され、あっさりと成立してしまった。確かにあまりに拙速だ。報道もほとんどない。衆参両院での実質審議は、たった3日しかないままに成立した。ネットなどでは、これで他国から合法的に人が流入することが可能になり、「近い将来には日本は中国にのっとられる」式の中国脅威論などが頻繁に書き込まれている。

 例によってあまりにも一方的で被虐的で非科学的な予測だとは思うけれど、でも確かに大きな変革を内に秘める法案なのに、審議が十分に尽くされなかったことは確かだ。要するになし崩し。主義主張はともかくとして、メディアの報道がほとんどなされなかったことも含めて、「ちょっとなあ……」という思いは否定できない。

 この連載のタイトルに使った「共同幻想」の言葉から、吉本隆明の『共同幻想論』を思い起こす人は少なくないはずだ。もちろん僕も吉本のこの著書からタイトルを引用した。

 吉本はこの『共同幻想論』で、個人と他者との関係を、1)自己幻想 2)対幻想 3)共同幻想 の3つに分類して、3)の共同幻想を個人と他者との公的な関係として定義した。

 吉本によるこの共同幻想の定義は、政治や社会、文化や制度、法や国家などの領域と言い換えることができる。マルクス的な語彙にすれば上部構造だ。これら上部構造が経済という下部構造によって規定されると見なした唯物史観的な思考に対して、共同幻想は下部構造から切り離されている場合があると吉本は主張した。