当時、万里の長城までの高速道路はまだできていないので、往復1時間半はどうしてもかかる。大平さんがその1時間半を利用して、車の中で姫外相と意見交換したいと言うので、それを受けて周総理は急きょ組み合わせを変えました。1号車が田中さんと呉徳北京市長。2号車には大平さんと姫鵬飛外相、3号車はそのままです。

周斌(しゅう・ひん)
1934年江蘇省生まれ。58年北京大学東方言語文学学部日本語専攻コース卒業後、中国外交部(外務省)に入り、日本語通訳として勤務。84年人民日報社国際部で記者業務。87年中国光大集団香港総部、92年香港*(日冠に辰)興集団高級顧問を務め2004年に退職。

 2号車の前の座席には運転手さんと警備の人が乗る。後部座席の大平さんと姫外相の真ん中に、私が座りました。通訳は私だけで、日本側の通訳は乗っていません。当時、私は車に酔うたちだったのですが、その時は全く酔いませんでした。とにかくうまく訳さないと大問題だと緊張していたからでしょう。

 車が出発するとまず大平さんが発言しました。「姫鵬飛さん、私はあなたと同い年です。私は日本の外務大臣であり、あなたも中国政府の外務大臣です。私たちはそれぞれの国、それぞれの人民のために議論をしてきたつもりです。いろいろ考えたのですが、今の私の感じではやはり歴史問題、つまり例の戦争にかかわる表現の仕方が問題だと思う。どうですか?」。すると姫外相は「続けてください。私は謙虚に聞きますから」と。

 大平さんはこうおっしゃいました。「姫鵬飛さん、私個人・大平は中国が指摘した考え方、中国の批判にほぼ賛成します。私の経歴を申し上げますと、一橋大学を出て大蔵省に就職しました。私は大蔵官僚として政府派遣で、約1年10ヵ月にわたって張家口を中心に中国の華北地域を3回視察しました。私が調査に行った時期は戦争の一番激しい時期でしたが、私本人は経済調査なので、鉄砲も持っていない。それでも私の目で見、体で感じたあの戦争は間違いなく中国に対する日本の侵略戦争で、これは弁解する余地がございません」。

 姫鵬飛さんは「そうです。ありがとうございます」と。すると大平さんはこう続けました。

「田中さんも敗戦直前に徴兵されて中国東北部の牡丹江に行ったが、鉄砲を持って戦争をやる直前に病気で倒れ、陸軍病院に入院した。結局、退院したらもう終戦だというので、鉄砲を撃ったこともありません。私がここで申し上げた認識は、田中さんも同じです。

 ただ、私は大平正芳個人ではなくて日本の外務大臣です。中国との交渉では日本国全体のことを考えなければなりません。日本が置かれている国際環境、特にアメリカとの同盟から、さらに自民党内においても反対者が多いし、日本社会でも反中勢力はかなり強い。そういうことを考えると、中国の考え方の全部を共同声明に書き込むことは難しい。しかしここに来た以上、私たちは最大の努力はする。命を懸けてやるつもりです。でなければ私たちは中国には来ません。北京に戻りましたら、ぜひ周恩来総理にそうお伝えください」

 姫さんの返事は「確かに承りました」ということだけでした。そして、北京に戻ると姫さんは周総理のところに飛んで行きました。私はその時はついて行かず、会談内容を整理しました。