もう1つが、ジョン自身がリーダーとして録音した「ザ・ジョン・ウィリアムズ・トリオ コンプリート・マスター・テイク1954-55」です(写真)。スタンダード曲中心の選曲ですが、主旋律がいつしかバド・パウエル的な技法で崩され、即興の渦の中で新たな音楽が再生されていきます。

 ここに至るまでのジョンの歩みには非常に興味深いものがあります。

 ジョンは1932年、ジャズ打楽器奏者を父としてニューヨークに生まれます。上述のとおり少年の頃から楽才を示しました。16歳の時一家でカリフォルニアに引越します。北ハリウッド高校を出て、50年カリフォルニア大学ロサンゼルス校に進学。亡命ユダヤ人音楽家カステルヌオーヴォ=テデスコに師事し作曲を学びますが、52年米空軍に徴兵されます。空軍では軍楽隊に所属し、バリトンサックスや編曲や指揮を担当しました。

 除隊した後、ジョンはニューヨークにやって来ます。54年のことです。当時のニューヨークは幾多の天才たちが参集し、音楽的革命が進行していました。モダンジャズの輝ける黄金時代でした。ジョンは、ジュリアード音楽院に通いピアノの腕を磨きます。夜な夜なマンハッタンのジャズクラブに出演するピアニストとして生計を立て、プロフェッショナルな音楽家としての第一歩を踏み出した訳です。

 ジョンの残したジャズの音盤を聴けば、彼のピアノが相当の水準であることが分かります。しかし、超個性派ぞろいのジャズの世界にあって、はたして歴史に名を刻むほどの存在になったか否かは分かりません。勿論そうなったかもしれませんが……。

 ここで突然ですが、フランツ・リストの話です。

 音楽家には大別して演奏家と作曲家がいます。19世紀中庸、リストは華麗なるピアニストとして全欧州に名声を誇っていました。が、新しい音楽を切り開くのは演奏家ではなく作曲家だということも知っていました。運命的に出会ったカロリーヌ・ザイン=ヴィトゲンシュタイン伯爵夫人の強い影響と支援で演奏家から作曲家へと重心を移します。そして作曲家として永遠の命を獲得する訳です。

 ジョンの場合は、映画「ティファニーで朝食を」でオードリ・ヘップバーンが歌った主題歌“ムーン・リバー”の作曲者ヘンリー・マンシーニの楽団にピアニストとして参加したことで運命の扉を開きます。ジャズの世界から映画音楽の世界へ転進するのです。

 他の作曲家の作品を譜面どおりに弾くピアニストならある程度の技量があれば誰にでもできます。が、マンシーニはジョンの眠れる才能を発見します。それは映画音楽に不可欠な2つの能力です。締め切り厳守のスピードとキャッチーな耳に残る親しみやすいフレーズです。ジョンは、早い安い巧い下請けのアレンジャーとして頭角を現すと、B級映画の音楽担当になります。そして、1960年にはメジャー作品を手がけるようになります。