思い出すために本を読む

【津田】僕の『あの人はなぜ、東大卒に勝てるのか』に書かれてなくて、藤原さんの『本を読む人だけが手にするもの』に書かれている決定的な部分があると思っていまして……。
それは何かというと、冒頭の「幸福論」の話です。藤原さんは現代人の読書する意味みたいなところを、「幸福」の定義が変わってきたという地点から書き起こされていますよね。

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それでふと考えたんですが、「幸福」と「論理」という話をぶつけてみると、結局「それがなぜ幸福と言えるのか?」みたいな問いを突き詰めていくことになりますよね。それをどんどん遡っていくときに、日本人には「これ」と言えるような宗教がないですよね。それを白洲次郎さんは「日本人にはプリンシプルがない」と表現したわけですが。

【藤原】だから日本は現世利益を重視するんですね。

【津田】そう。そして、だからこそ日本人は本を読まないといけないんだと思うんですよ。「個人個人の幸福のコアとなる部分は、本を読まないとつくれないんだ」という藤原さんのご指摘は、その通りだなと思いましたね。
それからもう1つ非常に印象に残っているのが、映画の話です。

【藤原】リュック・ベンソンの『ルーシー』ね。

【津田】「脳の90パーセントには人類の記憶がもともと入っている」という話ですよね。この部分を読んだとき、プラトンの「科学者とか技術家はかつてイデアの国に住んでいたから、真実を『思い出している』のだ」という話を思い出しました。

それは何か潜在的な、言葉になる前のものが脳に残っているということだと思うんですが、それを引き出すときに「本を読む」という体験がきっかけになる、というイメージですか?

【藤原】そう、本を読むことで「思い出す」ということですね。これは別に読書に限らず、あらゆる「学び」について言えることだと思うんですけど。知識というのはつねに「思い出す」ものなんじゃないかと……。誰にも確かめられないことですけどね。

【津田】そうですよね。

【藤原】一種の宗教みたいな話になるかもしれないけれど……結局、人類は3万年でも30万年でもいいんだけど、形質的には全部つながってきているはずですよね。そういうつながりの中にあるのに、脳の中に刻まれたソフトの部分だけが世代が変わるとチャラになるっていうのは、ちょっと不自然じゃないかな、と思っていて……。

【津田】なるほど。

【藤原】だから人間の脳には人類が経験したすべての記憶があって、猛烈に刺激した部分だけを「思い出す」んじゃないか。たとえば、日本人の父親と母親に日本語で育てられているから、日本語の部分だけを思い出しているということもあるんじゃないか。

そういう意味で、「本を読む」ことで「著者の脳のかけら」とつながると同時に、何かを「思い出す」ことがあると思うんですよね。あくまでこれは仮説でしかないんだけど。

【津田】「思い出す」という話は、僕はそっくりそのまま「そのとおり」だと思っていました。
博報堂にいたときにも感じていましたが、コピーライターがいいコピーを発想できないときっていうのは、ある種の「ど忘れ」状態なんです。せっかく脳の中にアイデアはあるのに、それをうまく「引き出せない」状態ですよね。
だから、逆に「ひらめき」の力がある人、発想力がある人というのは「ど忘れを防げる人」なんだと思うんですよね。

(対談完)

▼大反響!! 藤原和博 × 津田久資「思考・読書」対談▼
(前回までの連載はこちら!)

【第1回】
本当の頭のよさは「健全な腹黒さ」と「遊び」から生まれる

【第2回】
「700個のケーキ」を「800人の避難民」に届ける方法を考える