ユダヤ人にビザを発給すれば
自らも命を狙われかねない
・走り出づる列車の窓に縋りくる
手に渡さるる命のビザは
1940年9月1日、リトアニア駐在の領事代理だった杉原千畝の妻、幸子はベルリンへ向けて走り出す列車の窓から夫が身を乗り出してユダヤ人にビザを渡す情景をこう歌った。
幸子は当時まだ20代である。そのほぼ1ヵ月前の7月27日朝、リトアニアの首都カウナスの日本領事館は、突然、姿を見せたユダヤ人たちに囲まれた。ナチス・ドイツの「ユダヤ人狩り」の手を逃れ、ポーランドからほとんど着のみ着のままやって来た人たちだった。いたいけな子どももいる。
彼らは、日本通過のビザを発行してほしいと要請した。しかし、日本は4年前の1936年にナチス・ドイツと日独防共協定を結んでいる。日本領事館がユダヤ人にビザを発行したことがわかれば、杉原はゲシュタポに命をねらわれかねなかった。
けれども、目の前のユダヤ人たちは必死に助けを求めている。
当時5歳だった長男の弘樹が「あの人たちは何しに来たの?」と幸子に尋ねた。「悪い人に捕まって殺されるので助けて下さいって言ってきたのよ」
幸子がこう答えると、弘樹はさらに、「パパが助けてあげるの?」と尋ねた。幸子は言葉につまりながらも、「そうですよ」と言い、息子を抱き寄せた。
しかし、ユダヤ人を「助ける」ことは、この子をも危ない目に遭わせる可能性がある。「そうですよ」という幸子の言葉は、自分の覚悟を定めるためのものでもあった。
その結論に至るまで、杉原夫妻は悩みに悩んだ。
・ビザ交付の決断に迷ひ眠れざる
夫のベッドの軋むを聞けり
『白夜』等の歌集をもつ幸子は、こう歌っている。