貧しさをバネに1代で帝国を築いた
ワンマン会長の素顔
第2次世界大戦後に中国国民党と共に大陸から台湾に渡った両親の下、郭氏は台北郊外の板橋という土地で生まれた。「台湾で名を上げる」との願いから「台銘」と名付けられた郭氏は、生まれながらにして立身出世の野心を植え付けられたようだ。
父親は警察官だったが移住先では極貧の生活で、地元の道教寺院「慈恵宮」の一角の小屋を間借りして一家で暮らしていた。地元の中学校を卒業後、世界に乗り出す野望に燃えて船員養成学校で学んだ。卒業後、兵役を終えて就職した海事会社はすぐに辞め、23歳だった1974年に地元・新北市で小さなプラスチックメーカーを起業する。
当初から「世界一になる」というビジョンがあったという。
それから42年。1代で築き上げた「帝国」の領土は途方もなく拡大した。2015年の売上高は約15兆円(図「ホンハイの売上高と当期利益推移」参照)。中国を中心に30カ所以上の工場、120万人の従業員を抱え、デル、ヒューレット・パッカード(HP)、ノキア、モトローラ、そしてアップルと、パソコンや携帯電話の変遷ごとに勝ち組企業の受注を獲得し、世界的なメーカーに躍進した。
ホンハイの本社は、創業当時から台北郊外の新北市の土城工業地区にある。東京・大田区の工場地帯を連想させる地域で、近隣にひしめく町工場からプレス機の音が響き、重機やトラックが行き交う。5階建ての本社社屋は一部の壁が剥げ落ち、世界展開する巨大企業の本部とも思えない。シャープの事業所をぜいたくに感じるのもうなずける。
ホンハイ社員が恐れるのは、郭会長のリーダーシップスタイルだ。社員には身を粉にして働くことを要求し、昼夜を問わず携帯電話で呼び出しては頭ごなしに延々と説教。部屋の外には次に呼ばれる社員らの長蛇の列。郭会長の呼び出しにすぐに応じられなければ出世の道が断たれると社員は恐れるが、プレッシャーに耐えた社員を抜てきすることもある。
もっとも、郭会長から直接の説教を受ける機会は減っている。単なる受託生産(EMS)企業から脱却して、収益源の多角化を図る中、グループ経営のスタイルが大きく変わってきたからだ。
郭会長は11年ごろから「母艦から艦隊」に姿を変えるかのごとく、ワンマン経営を脱して集団指導に移行する方針を打ち出した。
以後、アップルやHPなど顧客単位の事業組織を、製品やサービス単位で12グループに再編成し、郭会長が指名したリーダーに権限委譲する体制を構築した。