「UCLAなどでもメッタを教えるプログラムがはじまっておるぞ。愛情、慈しみ、やさしさ、共感、寛容、喜び、感謝などを育てるのに、このシンプルな方法が役立つことがわかっておる。脳科学的な裏づけも進んでいて、メッタが後帯状皮質の活動をかなりリアルタイムに低下させることも明らかになっとるんじゃ。

ポジティブな感情は、ビジネスに限らず人間関係、教育、政治、外交、スポーツなどさまざまな場面でプラスに働くことがわかっておる。そして何より、妬み、怒り、絶望のようなネガティブな感情を打ち消し、不眠やストレスを改善する。〈モーメント〉のみんなのことを考えながら、メッタを続けてみてはどうじゃ?」

半信半疑ではあったが、科学的な裏づけも進んでいると聞いて、私はとにかくやってみることにした。脳に可塑性がある以上、脳の活動に影響のあるものを続けていれば、何かしら自分に変化が起きてきても不思議ではない。何より、これ以上ネガティブな感情に支配されるのはごめんだ。明日からマインドフルネス呼吸法のあとにメッタを取り入れてみることにしよう。

「ところでナツ」

思い出したようにヨーダがつけ加えた。「〈モーメント〉のトイレはきれいかな?とくに従業員用のトイレじゃな」

*     *     *

「ナツ、言っておくよ。あんたがやってる瞑想とやら、おれはうんざりなんだ」

いつもより朝早く店に行き、トイレ掃除をしていた私に話しかけてきたのはクリスだった。ヨーダの予想どおり、〈モーメント〉の従業員用トイレはひどく汚れていた。心や脳の疲れは、他人に対するやさしさの欠如という形で現れる。そして、やさしさを欠いた職場では、まずトイレが汚れるというのがヨーダの持論だった。

女子トイレの掃除を終え、男子トイレに取りかかったあたりで、クリスが背後から声をかけてきたのだ。

「見てのとおり、おれは白人とアジア人のハーフだ。ここアメリカで生きていくうえで、東洋的なものっていうのは重石にこそなれ、まず役に立つことなんかない。どうせトイレ掃除もその一環なんだろ。はっきり言うが、目障りなんだよ」

クリスは本当にいやそうな表情でそう言った。

「クリス、私は決して無意味だなんて思わないわ。一緒に厨房にいるんだから気づいているでしょ?最近のカルロス、すごく変わったと思わない?」

カルロスの変化は誰の目にも明らかだった。もともとミスが多すぎたこともあるが、近ごろでは以前のような派手なヘマをやったりすることがなくなっていた。先日は逆に、カルロスのほうがクリスのミスに気づいていたくらいだ。明らかに彼の集中力は高まっていた。

だが、どうやらそれが気に食わなかったらしい。カルロスの名前が出た途端、クリスは露骨に顔をしかめた。私は同時に、クリスの性格を思い出していた。普段は寡黙な職人タイプだが、周囲から少しでも批判を受けると、かなり神経質に防衛的な反応をする。私は自分の発言がまずかったことを反省しはじめていた。

「ところで、アジア系なのはお父さんなの?それともお母さん?」

何か話題を変えなければと焦った私は、とっさに思いついた質問を投げかけた。

「父親だよ。あんたと同じ日本人だ。ひどい父親だった。小さいころはいつも殴られたし、何かあればすぐ『忍耐』『辛抱』ばかり押しつけられた」

思わぬところを突ついたようだ。しかしこの瞬間、私は彼のことを少しばかり理解できたように思った。

「クリス、私の父も負けないぐらい石頭よ。なんせお坊さんなんだから。私もじつは坐禅なんて大っ嫌いなの……。父ともケンカばかりで……」

「ん?じゃあ、なんで瞑想なんてやってるんだよ」

クリスは吐き捨てるように言ったが、先ほどまでのとげとげしい感じはなくなっている。

予想外の共通点を見つけた私たちはその後、しばらく自分たちの父親のことを語り合った。いつもとは比べものにならないくらい多弁になったクリスは、父親への不満、そして日本的なもの、アジア的な感性に対する嫌悪感を淡々と語った。私はそのすべてに100%の同意を示しつつ、なぜかマインドフルネスの「伝道師」役をするハメになった顛末を説明した。

「ふん、よりによって坊主の娘が、イェールにまで来て瞑想を学ぶなんて……ご苦労なことだな」

そう言ったクリスの表情は、心なしか打ち解けてきたように思えた。