「春闘」は今年が最後か?

 今年の春闘を「最後の春闘」と呼んでみたい。

 現実的な予想としては、来年の春も労働組合と経営者の交渉は行われるのだろうし、メディアは無難な繰り返しを好むから「春闘」という手垢で黒ずんだ言葉でそれを報じるだろう。しかし、過去少なくとも十数年間にわたって春闘はその存在感を低下させてきた。

 組合は趨勢的に組織率を低下させてきたし、最大の闘争手段であるストライキもあまり行われなくなった。

 一つにはストライキが国民一般から反感を買うことが明らかになり、もう一つにはストライキがもたらす企業へのダメージが資本家・経営者だけでなく労働者にも及ぶことを労働者自身が感じるようになった。ストライキは時代遅れだし「割に合わない」。

 加えて、近年の不景気とグローバルな競争が労働市場にも影響を与え、さらには正社員に代替可能な非正規労働者が現れて、組合員労働者が賃上げや福祉の改善といった分かりやすい要求を掲げることが闘争目標としてのリアリティを失った。

 株主及び経営者側に生産の海外移転あるいは非正規労働者への置き換えといった代替手段が生まれ、さらには消費者側でも安価な海外製品が消費の選択肢に加わったことで、正社員労働者は交渉力を失い続けた。株主の権利をより重視するようになった世間の空気も組合に共感的ではなくなった。

 その結果が、「いざなぎ越え」を達成した弱いながらも景気回復期にあっても現金給与支払総額が伸びなかった賃金の低迷であり、象徴的だったのは、トヨタ自動車の労組による増益の最中の2005年春闘でのゼロ・ベア要求だった。あの時、日本の労働組合はほぼ死んだ。

 組合側の弱体化ばかりを取り上げるのはフェアでないかも知れない。