深澤 献
今回は、井深大と共にソニーを創業した盛田昭夫(1921年1月26日~1999年10月3日)の「週刊ダイヤモンド」1990年1月6日号で、新春インタビューとして掲載されたものである。2カ月前の89年11月にはベルリンの壁が崩れ、続く12月の米ソ首脳会談で冷戦の終結が確認されたばかり。まさに世界情勢は激動の中で90年代の幕を開けた。

「ダイヤモンド」1934年3月1日号に掲載された日本産業(日産)の経営分析記事に対する、鮎川義介の反論インタビューを掲載する。記事の出た翌号の3月11日号に続き、3月21日号に掲載されたものだ。

「ダイヤモンド」1934年3月1日号に「日産の変態経営」と題したレポートが掲載された。この年、日本産業(日産)が大阪鉄工所(現日立造船)、共同漁業(現日本水産)、東洋捕鯨(現日本水産)の合併を相次いで決定したことに関する分析記事である。記事では多角化を図る日本産業の“変態(形態を変えること)”について、疑義を呈している。「多角化経営は現代の傾向である。紡績が生糸・人絹・羊毛に進出し、肥料製造が薬品に転向するごときが顕著な例であるが、日産の多角化経営は木に竹を接ぐごときで、その間になんら事業上の連絡がない」と酷評しているのである。

前回に続いて、1952年5月15日発行の「週刊ダイヤモンド」臨時増刊「日本の告白」に掲載された小林一三(1873年1月3日~1957年1月25日)と、ダイヤモンド社創業者、石山賢吉の対談だ。主に電力会社経営について語っていた前半に対し、後半は公職追放を経て16年ぶりに社長として戻ってきた東宝についてが話題の中心だ。戦争を挟んで国内のエンターテイメント産業は大きく様変わりしており、「今までのものは見込みがない」と小林は明かしている。

今回紹介するのは、1952年5月15日発行の「週刊ダイヤモンド」臨時増刊に掲載された小林一三(1873年1月3日~1957年1月25日)と、ダイヤモンド社創業者、石山賢吉の対談だ。同号は「日本の告白」と題し、通常の経済雑誌の枠を超えた興味深い記事を掲載している。その筆頭は「東条英機の遺言状」だ。太平洋戦争開戦時の首相であり、48年12月23日にA級戦犯として絞首刑に処された東条の、死刑の十数分前に手錠をかけられたまま自署したという絶筆の署名まで掲載されている。

今回紹介するのは、「週刊ダイヤモンド」1984年3月31日号に掲載された東京急行電鉄社長の五島昇(1916年8月21日~1989年3月20日)と、慶應義塾大学教授で経済学者の加藤寛(1926年4月3日~2013年1月30日)の対談である。

河合楽器製作所の創業者である河合小市は、「発明小市」とも呼ばれた技術者で、ヤマハの前身である山葉風琴製造所に勤め、同社の創業者、山葉寅楠と共に日本で初めてピアノをつくった人物だ。1955年に小市が死去すると、後任社長に就任したのは娘婿の河合滋(1922年7月28日~2006年8月20日)だった。

2005年末に大林組、清水建設、鹿島、大成建設の大手ゼネコン4社は「談合決別」を宣言した。しかしその後も、大手4社に対する課徴金が課せられた案件としては、名古屋市営地下鉄(07年)、防衛施設庁の土木工事(07年)、北陸新幹線(14年)、東日本大震災の舗装復旧工事(16年)、リニア中央新幹線(20年)などがある。

1980年代後半の日本は、85年のプラザ合意以降、円高が急速に進行したにもかかわらず、貿易黒字が巨額になっており、双子の赤字に苦しむ米国だけでなく、世界経済にとって脅威となっていた。そんな状況下、中曽根康弘内閣が設置した私的諮問機関「国際協調のための経済構造調整研究会」により、86年の春に報告書が発表された。座長である元日本銀行総裁、前川春雄(1911年2月6日~1989年9月22日)の名を取った通称「前川レポート」だ。

「週刊ダイヤモンド」1987年4月11日号から始まった連載企画「ザ・経営者」は、戦後の産業社会を形成した経営者へのインタビューを通して、その人間性とビジネス哲学の両面から経営者のトータルな人間像を探求しようというものだった。第1回は、ダイエー(現イオン)創業者の中内功。

今回は、「週刊ダイヤモンド」1994年8月27日号に掲載された佐々木正のインタビューを紹介する。89年からシャープでは顧問に退き、94年5月に国際基盤材料研究所(ICMR)を設立したばかりのタイミングだ。

河合良成(1886年5月10日~1970年5月14日)は、官僚から財界、政界に転じ、戦前戦後の激動期を生き抜いた男だ。今回の記事は、「ダイヤモンド」1963年5月20日号に掲載された河合のインタビューである。ちょうどこの号は、ダイヤモンド誌の創刊50年に当たるため、日本経済と財界の50年を、自身の半生と共に振り返ってもらっている。

今回紹介するのは、「週刊ダイヤモンド」1984年2月25日号に掲載された、日本電信電話公社総裁の真藤恒(しんとう ひさし、1910年7月2日~2003年1月26日)と、当時外務省調査企画部長だった岡崎久彦(1930年4月8日~2014年10月26日)の対談だ。

3回に分けて紹介した福沢桃介のインタビュー。福沢が自ら、相場師時代の一攫千金のエピソードから電力事業などでの実業家に転じた後の成功譚を披露してきた。「下」では、大同電力で行った米国での外債発行の思い出話が中心となる。

前回に続き、福沢桃介自身による回顧記事だ。相場師として日露戦争後の株式相場で財を成した後、その資金を元手に実業の世界に転身するが、そのときに共同出資者として白羽の矢を立てたのは、三菱財閥の3代目総帥、岩崎久弥である。岩崎は桃介が養父、福沢諭吉の勧めで米国留学していたときに知り合った仲だった。

福沢桃介(1868年8月13日~1938年2月15日)は、慶應義塾在学中にその美男ぶりから福沢諭吉の妻・錦と次女・房に見初められ、婿養子として福沢家に入った。もっとも諭吉には4人の息子がいたため家督を継ぐ必要もなく、伸び伸びと才覚を発揮することができた。

米ボストン・コンサルティング・グループ日本支社代表のジェームス・C・アベグレンは、1958年にダイヤモンド社から刊行されベストセラーになった著書『日本の経営』において、「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」といった日本企業の特徴を世界に紹介した人物だ。戦後日本の発展はこうした「日本的経営」にあったと喝破し、注目を浴びた。

鉄道省の官僚だった大川博(1896年12月30日~1971年8月17日)は、東京横浜電鉄(現東急電鉄)の五島慶太に見込まれ、1942年に東急に入社する。統制部長兼総務局次長として、大川の言葉を借りると「傍系事業の統括担当」を務めた。五島の“影武者”として京王電鉄との合併などで活躍し、約60社の傍系会社を誕生させたという。

加納久朗(1886年8月1日~1963年2月21日)は、東京帝国大学を卒業後、横浜正金銀行(後の東京銀行で現三菱UFJ銀行)に入行し、国際金融畑で活躍した人物。戦後は多くの事業会社の経営に携わり、1955年に日本住宅公団の初代総裁に就任する。54年に成立した鳩山内閣は、大都市地域において年間42万戸の住宅建設目標を掲げており、それを実現するのがミッションである。

コロナ禍から世界経済が回復に向かい、原油の需要増が見込まれていたところに、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が勃発。ロシアからの原油供給が途絶する懸念が生じ、原油価格が高騰している。石油は日本の一次エネルギー供給の約4割を占めるが、その約99.7%を輸入に依存しているだけに、打撃は大きい。ところで、かつてサウジアラビアとクウェートに石油利権を持ち、実際に油田開発に成功した日本企業がある。アラビア石油である。
