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深澤 献

ダイヤモンド編集部論説委員

ふかさわ・けん/広島県出身。1989年ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」でソフトウェア、流通・小売り、通信・IT業界などの 担当記者を経て、2002年10月より副編集長。16年4月よりダイヤモンド・オンライン(DOL)編集長。17年4月よりDOL編集長との兼任で週刊ダイヤモンド編集長。19年4月よりデジタルメディア開発部長兼ダイヤモンド論説委員。2022年2月~24年2月まで株式会社TBMに転じた後、24年4月より週刊ダイヤモンド事業室編集委員。著書に『ヤマ師 裸一貫から一代でトヨタ・松下・日立を超える高収益企業を作った破格の傑物「山下太郎」のすべて』、共著に『そごう 壊れた百貨店』『沸騰する中国』(いずれもダイヤモンド社刊)など。

“ミスター自由競争”住金・日向方齊とソニー・井深大が語り合った「競争と繁栄」
深澤 献
今回紹介するのは、「ダイヤモンド」1966年5月23日号に掲載された住友金属工業(現日本製鉄)社長の日向方齊(1906年2月24日~93年2月16日)と、ソニー(現ソニーグループ)社長の井深大(1908年4月11日~97年12月19日)の対談である。
“ミスター自由競争”住金・日向方齊とソニー・井深大が語り合った「競争と繁栄」
サムスン創業者が本音で語った「日本は韓国への技術移転を惜しむな」
深澤 献
今回紹介するのは、「週刊ダイヤモンド」1981年9月12日号に掲載された韓国サムスングループ会長、李秉喆(イ・ビョンチョル:1910年2月12日~1987年11月19日)のインタビューだ。李は日本統治時代に早稲田大学政治経済学部で学び、38年に大邱(テグ)で三星商会を設立した。これが韓国最大の財閥の始まりである。
サムスン創業者が本音で語った「日本は韓国への技術移転を惜しむな」
賀来龍三郎、51歳でキヤノン社長になった「無名の苦学青年」
深澤 献
キヤノンの前身、精機光学研究所は1933年11月創業。ドイツのライカに「追い付け追い越せ」で国産カメラの開発にいそしむ。47年にキヤノンカメラに社名変更し、54年にはライカに劣らぬ名機と評価を受ける「IV Sb改」を世に出した。賀来龍三郎が入社したのは、まさにその年である。
賀来龍三郎、51歳でキヤノン社長になった「無名の苦学青年」
社会主義運動の先駆者、荒畑寒村が解説する「大正時代の労働組合」
深澤 献
荒畑寒村(1887年8月14日~1981年3月6日)は、日本の社会主義運動の先駆者である。1903年、横須賀海軍造船廠で職工見習だったときに、日露戦争に非戦論を唱えた幸徳秋水、堺利彦らに感化される。幸徳、堺が非戦の主張を貫くために発刊した社会主義新聞「平民新聞」に参加し、社会主義運動に身を投じた。
社会主義運動の先駆者、荒畑寒村が解説する「大正時代の労働組合」
堺屋太一が80年代に発した警告「終身雇用の危険性と挑戦しない大企業」
深澤 献
今回は「週刊ダイヤモンド」1984年12月29日号に掲載された、作家で経済企画庁長官などを務めた堺屋太一(1935年7月13日~2019年2月8日)の談話記事である。
堺屋太一が80年代に発した警告「終身雇用の危険性と挑戦しない大企業」
破綻した三洋証券、東洋一のトレーディングセンターで描いた証券界の未来
深澤 献
今から35年前、バブル景気真っただ中の1988年5月、東京都江東区塩浜に三洋証券のトレーディングセンターが建設された。東京証券取引所の立会場の約2倍、サッカー場がすっぽり入る広さのトレーディングルームは当時、東洋一と称された。壁には巨大モニター、フロアには最新鋭のコンピュータ端末が3000台も並び、世界中の市場動向が常に映し出されていた。24時間取引に対応できるよう、仮眠室も完備していたという。
破綻した三洋証券、東洋一のトレーディングセンターで描いた証券界の未来
ソニー出井伸之社長が四半世紀前に語ったデジタル革命時代の「収穫逓増」経営
深澤 献
今回は、「週刊ダイヤモンド」1997年9月20日号の特集「ソニー複雑系経営の秘密」に掲載された、当時のソニー社長、出井伸之(1937年11月22日~2022年6月2日)のインタビューだ。聞き手は当時、京都大学経済研究所長を務めていた佐和隆光である。
ソニー出井伸之社長が四半世紀前に語ったデジタル革命時代の「収穫逓増」経営
住友銀行の“天皇”磯田一郎、バブル崩壊前に説いた「銀行の仕事とは」
深澤 献
今回は1987年5月16日号に掲載された住友銀行(現三井住友銀行)の磯田一郎会長(1913年1月12日~93年12月3日)のインタビューである。聞き手は文化精神医学者の野田正彰氏。「ザ・経営者」と題されたシリーズ企画で、当時の日本を代表する経営者たちに、生い立ちから若い頃の夢、経済人として社会や時代にどう関わってきたのか、そして自分の仕事をどのように捉えているかといったテーマに深く切り込む内容となっている。
住友銀行の“天皇”磯田一郎、バブル崩壊前に説いた「銀行の仕事とは」
二代伊藤忠兵衛が語った「商社必滅論」の意味と打開策
深澤 献
総合商社の伊藤忠商事と丸紅は、江戸時代末期の1858(安政5)年に、伊藤忠兵衛が関西から全国各地へ麻布(まふ)を行商する「持ち下り」を始めたのが起源だ。上方の商品を携えて地方へ出張販売し、帰りは地方の産物を仕入れて上方で売りさばくという近江商人のスタイルである。1872(明治5)年、大阪・本町に呉服太物商(呉服は絹織物、太物は綿織物・麻織物を指す)「紅忠」(後に「伊藤本店」に改称)を構え、海外貿易にも乗り出した。また、相場商品である綿糸の卸商「伊藤糸店」も開設。伊藤忠商事の社史によると、現在の伊藤忠商事はこの糸店が根幹となり発展したものという。
二代伊藤忠兵衛が語った「商社必滅論」の意味と打開策
ロイヤル創業者の外食王・江頭匡一、飲食業の産業化という一貫した「夢」
深澤 献
今回は、ロイヤルホールディングスの創業者でファミリーレストランの草分け、江頭匡一(1923年3月25日~2005年4月13日)のインタビュー。「週刊ダイヤモンド」1983年1月8日号に掲載されたものだ。
ロイヤル創業者の外食王・江頭匡一、飲食業の産業化という一貫した「夢」
“相場の神様”と呼ばれた山崎種二の「勉強法、人生哲学、相場談義」後編
深澤 献
山種証券創業者の山崎種二(1893年12月8日~1983年8月10日)インタビューだ。話の中に出てくる人物たちが、どれも興味深い。日本画家である川合玉堂は山崎と親交が深く、山種美術館(東京都渋谷区)にも71点の作品が収蔵されている。インタビューでは、奥多摩の川合邸に足しげく通ったエピソードが語られている。山崎は川合が亡くなる2~3年前に「私の心の戒めになるようなものを書いてください」と頼んだところ、「信は万事の本を為す」との書をもらい受けたという。この言葉は今も、ヤマタネグループの経営理念となっている。
“相場の神様”と呼ばれた山崎種二の「勉強法、人生哲学、相場談義」後編
“相場の神様”と呼ばれた山崎種二の「勉強法、人生哲学、相場談義」(前)
深澤 献
山崎種二(1893年12月8日~1983年8月10日)は群馬県北甘楽郡(現高崎市)に生まれ、16歳で上京、叔父の山崎繁次郎が営む東京・深川の回米問屋、山繁商店に入社した。山繁商店では営業支配人として1918年の米騒動を体験するなどで、相場観を磨いた。
“相場の神様”と呼ばれた山崎種二の「勉強法、人生哲学、相場談義」(前)
豊田章一郎が89年の年頭に誓った「空洞化を起こさせないのが我々の責任」
深澤 献
先ごろ亡くなった豊田章一郎(1925年2月27日~2023年2月14日)は、トヨタグループの始祖である発明王、豊田佐吉を祖父に持ち、豊田自動織機製作所に自動車部を設け、トヨタ自動車工業を創業した父・喜一郎と、高島屋創業者の飯田新七(4代目)の娘である母・二十子の間に生まれた豊田家の長男である。ただ、喜一郎からトヨタに入れとは一言も言われなかったし、自分もその気はなかったと自著で明かしている。
豊田章一郎が89年の年頭に誓った「空洞化を起こさせないのが我々の責任」
ソニー盛田昭夫が喝破した「90年代の世界経済大転換」と「ハードからソフトへ」
深澤 献
今回は、井深大と共にソニーを創業した盛田昭夫(1921年1月26日~1999年10月3日)の「週刊ダイヤモンド」1990年1月6日号で、新春インタビューとして掲載されたものである。2カ月前の89年11月にはベルリンの壁が崩れ、続く12月の米ソ首脳会談で冷戦の終結が確認されたばかり。まさに世界情勢は激動の中で90年代の幕を開けた。
ソニー盛田昭夫が喝破した「90年代の世界経済大転換」と「ハードからソフトへ」
「日産の変態経営」、ダイヤモンドの酷評記事に即レスした鮎川義介の釈明(後)
深澤 献
「ダイヤモンド」1934年3月1日号に掲載された日本産業(日産)の経営分析記事に対する、鮎川義介の反論インタビューを掲載する。記事の出た翌号の3月11日号に続き、3月21日号に掲載されたものだ。
「日産の変態経営」、ダイヤモンドの酷評記事に即レスした鮎川義介の釈明(後)
「日産の変態経営」、ダイヤモンドの酷評記事に即レスした鮎川義介の釈明(前)
深澤 献
「ダイヤモンド」1934年3月1日号に「日産の変態経営」と題したレポートが掲載された。この年、日本産業(日産)が大阪鉄工所(現日立造船)、共同漁業(現日本水産)、東洋捕鯨(現日本水産)の合併を相次いで決定したことに関する分析記事である。記事では多角化を図る日本産業の“変態(形態を変えること)”について、疑義を呈している。「多角化経営は現代の傾向である。紡績が生糸・人絹・羊毛に進出し、肥料製造が薬品に転向するごときが顕著な例であるが、日産の多角化経営は木に竹を接ぐごときで、その間になんら事業上の連絡がない」と酷評しているのである。
「日産の変態経営」、ダイヤモンドの酷評記事に即レスした鮎川義介の釈明(前)
小林一三・阪急東宝創業者が戦後の“独立回復”を機に語った日本再興論(後)
深澤 献
前回に続いて、1952年5月15日発行の「週刊ダイヤモンド」臨時増刊「日本の告白」に掲載された小林一三(1873年1月3日~1957年1月25日)と、ダイヤモンド社創業者、石山賢吉の対談だ。主に電力会社経営について語っていた前半に対し、後半は公職追放を経て16年ぶりに社長として戻ってきた東宝についてが話題の中心だ。戦争を挟んで国内のエンターテイメント産業は大きく様変わりしており、「今までのものは見込みがない」と小林は明かしている。
小林一三・阪急東宝創業者が戦後の“独立回復”を機に語った日本再興論(後)
小林一三・阪急東宝創業者が戦後の“独立回復”を機に語った日本再興論(前)
深澤 献
今回紹介するのは、1952年5月15日発行の「週刊ダイヤモンド」臨時増刊に掲載された小林一三(1873年1月3日~1957年1月25日)と、ダイヤモンド社創業者、石山賢吉の対談だ。同号は「日本の告白」と題し、通常の経済雑誌の枠を超えた興味深い記事を掲載している。その筆頭は「東条英機の遺言状」だ。太平洋戦争開戦時の首相であり、48年12月23日にA級戦犯として絞首刑に処された東条の、死刑の十数分前に手錠をかけられたまま自署したという絶筆の署名まで掲載されている。
小林一三・阪急東宝創業者が戦後の“独立回復”を機に語った日本再興論(前)
五島昇と加藤寛が84年に語り合った21世紀の日本とコンピュータ時代
深澤 献
今回紹介するのは、「週刊ダイヤモンド」1984年3月31日号に掲載された東京急行電鉄社長の五島昇(1916年8月21日~1989年3月20日)と、慶應義塾大学教授で経済学者の加藤寛(1926年4月3日~2013年1月30日)の対談である。
五島昇と加藤寛が84年に語り合った21世紀の日本とコンピュータ時代
元軍人の河合滋社長が語った「河合楽器の再建に生かされた軍隊の体験」
深澤 献
河合楽器製作所の創業者である河合小市は、「発明小市」とも呼ばれた技術者で、ヤマハの前身である山葉風琴製造所に勤め、同社の創業者、山葉寅楠と共に日本で初めてピアノをつくった人物だ。1955年に小市が死去すると、後任社長に就任したのは娘婿の河合滋(1922年7月28日~2006年8月20日)だった。
元軍人の河合滋社長が語った「河合楽器の再建に生かされた軍隊の体験」
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