「それで、アリサさん、先ほど話していた“主体的真理”についてですけど」

「はい、つづきがあるんですね」

「はい。さきほど話した“主体的真理”がありましたよね。自分自身にとっての真実みたいなものですが、その反対が客観的真理になります」

「客観的真理?それはどういうものですか?」

 私は、キルケゴールに聞き返した。するとキルケゴールはフッと笑って、さっきよりもいっそう真剣な顔つきとなった。

「客観的真理は一般的な事実ですね。
 例えばさっきの例でいうと“流行のファッション”みたいなもの。ファッション誌を見れば、いま流行っているファッションというのは、統一されていますよね。
“いまはナチュラル系ファッションが大人気”というのが客観的真理で“ナチュラル系ファッションが流行っているけれど、僕は黒ずくめファッションが好き”というのが主体的真理です」

「えっと……客観的真理は、自分がどう思うかは関係なく、客観的にある事実ということですか?」

「そうです。そして現代は“主体的真理”を追求するのではなく“客観的真理”を鵜呑みにしがちだと、僕は思うのです」

「客観的真理を鵜呑みにしがち……」

 そう言われると、自分の考えもこの“客観的真理”を鵜呑みにしたものだったのかもしれない。

 家族のあり方を嘆いているのも、一般的に「家族というのはこうあるべきだ」という“客観的心理”を鵜呑みにしているからだろうか、という疑問がふと浮かんだ。

「僕が思うに、現代はそういった客観的真理に大衆が流されてしまう“水平化の時代”だと、思うんです」

「水平化の時代、ですか」

「はい、自分の中の意見を追求せず、一般的にいいとされるものに流されてしまう人がほとんどという時代です。そこには感動もなければ、個性もない。
 自分の意見をしっかり持って、何かに情熱を注ぐ人がいても大衆とずれていたら、あいつ変だよなって、軽蔑されてしまう時代です」

「大衆からすると、個性を持って、主体的に生きている人は“妬み”の対象になるのです。
 個性的な人たちの生き方が肯定されれば、自分たちの生き方がちっぽけでつまらないものに感じられたりもしますからね」

「たしかに、熱く生きている人をすごい!と思う反面、自分の生き方と違いすぎて、バカにしたくなる気持ちも、たしかにわかります」

「バカにする人は、自分の人生ではなく、他人の人生を妬むことに時間を費やしてしまっているのです。つまり『情熱をもって生きないと、自分の世界は妬みに支配されてしまう』と言えるでしょう」

 自分の人生ではなく、他人の人生を妬むことに時間を費やしてしまっている。情熱をもって生きないと、自分の人生は妬みに支配されてしまう――。

 いままで自分の人生のために、時間をフル活用して生きてきた、とは胸を張って言えない自分がいることに、私は気づいた。人生の時間はいくらでもあるように思えていたが、刻一刻と、時間は過ぎていっているのだ。

 私にとって、情熱を燃やせる生き方とは何か?を持たないまま、ただ時は残酷に減っていくばかりである。

(つづく)

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある